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525~ |
中心テーマの大合唱が始まる直前のホルンのリズムパターンの真実は? |
話は戻るが、厳しい‟戦いの部分”が終わり、次にメインの大合唱が始まる直前(525~)に、ホルン2本のみが最弱音で4小節間同じようなシンコペーションのリズムを刻むところが断続的に3回出てくる(計12小節で12回のシンコペーションのリズム)。20世紀終わりごろまでは、1864年のBreitkopf版に準じて、12回とも同じリズムで演奏されていた。しかし自筆譜を見ると、ベートーヴェンはそのホルンの12回のシンコペーションの内、自筆譜では4回のリズムパターンに変化を与えている(違うリズムパターンに変えている・過失か?)。それにより不規則になったリズムの鼓動は、肯定的に解釈すれば、あたかもそれまでの厳しい戦いに疲れた若い戦士たちの乱れる呼吸の描写であるとも採れ、その興奮冷め止まぬまま“喜びの歌”の大合唱へと橋渡しをする重要な部分とも私には見えた。しかも彼としては珍しく非常に鮮明な音符によりホルンの2パートに同じ不規則なリズムを書いており、決して不注意に不規則なシンコペーションを書いてしまったとは思われず、彼の意思により敢えて変化を与えたと考えられた。 ところが私が持っている、1827年夏にメトロノームの数字を書き込んで出版されたショット社による初版の第2稿のコピー譜では、すでにすべて(12回)のシンコペーションが全く同一のリズムに変更されている。このリズムパターンは、1864年にBreitkopf社が「第九」出版に初参入してきた際にもそのまま取り入れられたため、最近までは世界中でそのリズムパターンが演奏されてきた。ところが、20世紀末から21世紀初頭にかけ相次いで新版を出したBärenreiter社とBreitkopf社は、共に自筆譜に書かれた、つまり初演時のリズムパターンに戻し、演奏するたびに異なる不規則なシンコペーションのリズムになるよう敢えて修正したのである。そのため、現在ではそのような演奏も増えてきている。問題は自筆譜を基にして出版されたはずにも拘らず、全てを同一リズムパターンに変えてしまった初版の真偽である。それを確認するために、1826年9月末にベートーヴェンが最後の目を通したはずの前述の献呈稿を見ると、自筆譜のその部分に計12回あったリズムパターンの内、11回は同じ規則的なリズムとして修正されており、なぜか1回だけが自筆譜どおりの不規則なリズムのまま残っている。この現象は、一見支離滅裂なリズムにも見えるが、献呈稿のこの部分にはベートーヴェンによってあとから修正された跡は無く、それにも拘らず自筆譜に存在した4か所の不規則なリズムのうち3か所もが規則的なシンコペーションのリズムに変更されている。このことを考慮すると、1箇所のみ不規則なリズムのままになっていた箇所は、たまたまの写譜師のミスであり、基本的にはその4箇所を含む12箇所共、初版で変更されたように規則的リズムに変更して写譜しようとしていたと考えるのが自然だろう。すなわち、初版を編集する際には、すでにベートーヴェンから出版社に対し、12箇所すべてのリズムパターンを同じに直すよう希望が伝えられており、それとは別に、献呈稿の写譜師にもベートーヴェンから同じようにリズムの変更が伝えられていたという可能性が高いと推測されるのである。そう考えるとすべての矛盾点が解決するが、この真偽を証明する資料は、この献呈稿以外にはおそらくどこにも残されていないだろう。すなわち、今となれば誰もがあくまで推測による結論しか出せないが、新規参入の2社の新版で、最初の自筆譜どおりにリズムパターンを戻した根拠は、ただ自筆譜がそうなっており、当時のピアノ編曲譜もそうなっていた(後述)から、というだけの脆弱なもののみである以上は、この献呈譜をも考慮しての私の推測、すなわち初版に基いた従来の版の通り、全てのリズムパターンは規則通りであることがベートーヴェンの、死の1年前の段階における最終結論であるという推定が一番正解である確率が高く、一番自然な推測であろう。 現在流通し始めた大手2社の新版を含め、今後いかなる新版が出版されたとしても、ベートーヴェンがこの世にいない以上、上記の資料により各指揮者が各々推定し、その指揮者なりに結論を出すしかない。ちなみに、19世紀後半頃までに出版された著名作曲家による「第九」のピアノ編曲版では、このホルンのリズムは、すでに出版されていたショット社の初版譜には基づかず、最初の自筆譜どおりの不規則なリズムに拠っている。この事実は、Breitkopf社が12回のシンコペーションのすべてを同じパターンに変更した総譜を出版するまでは、自筆譜に基づく不規則なリズムパターンで演奏する方が優勢であった可能性を示している。しかし、それらの編曲者には、すでに何十年も前に亡くなったベートーヴェンからのリズム変更が直接伝わることは有り得ず、勿論今なら見られる上記献呈譜の内容等を彼らは知り得る立場になく、ただただ自筆譜に忠実に従っただけの編曲であり、上記の如くもしベートーヴェン自身が考えを変え、それをショット社に連絡していた可能性を考慮に入れると、やはり12回のリズムパターンをすべて同じに修正した初版に基く20世紀中まで使われていた旧Breitkopf社版が正しいと私は結論付けた。私のこの結論も選択肢の一つであり、あとは各指揮者が自らの根拠を持ってリズムパターンを選択することが望ましいと私は思っている。 |
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◎似た勘違い例は、1楽章第2主題の81小節における、FlとObの音程の、提示部と再現部との整合性の問題が挙げられる。 1楽章の第2主題の2小節目(81小節)に書かれたFlとObの2つ目の音符の音程は、1864年にBreitkopf 社の改定によって提示部、再現部共に同じB♭(シ)に統一されたが、自筆譜、初版、献呈稿、更には当時のピアノ編曲譜等の提示部では、すべてがD(レ)になっており、ベートーヴェン本人がDと書いたのは明らかである。しかし再現部のその箇所では、同じ資料にはすべてB♭と書いてあり、提示部がDのままであるとすると、明らかに整合性が取れず音楽的に不自然な感が否めない。1864年の改定以降、Breitkopf 社により提示部のDは彼の書き間違いであるとされ、以後出版された全ての版では提示部、再現部共にB♭で統一され、演奏上も何の矛盾も無く、極めて自然に演奏されてきた。それに対し最新の2社の楽譜では、整合性が合わないにも拘らず敢えて提示部をDに戻している。その根拠の一つに、上記の如く彼がDと書いたことは明らかであり、もし整合性がないことが不自然であるというならば、当然当時の奏者等からもそれに関してベートーヴェンは確認の質問を受けたであろう。それにも拘わらず変更されずDのままであったのだから、彼は敢えて整合性を無視してDと書いたに違いない。故に我々はその意思に従うべきである、という訳である(注)。しかし、この同じ旋律の中の特定の音程を、作曲時に敢えて提示部と再現部でDとB♭とに書き分けた?ことは、本当にベートーヴェンの意思だったのだろうか? 彼は第2主題の音程を、提示部を書いている時には、提示部・再現部共にDと書くつもりでDを選び、再現部を書く際に、おそらく勘違いし、提示部でB♭と書いたつもりでいたのだろう、彼は何の疑いも無くFlとObの音程をB♭に揃えてしまった、という確率が高いと私は考えている。おそらくそれに気づいた1864年のBreitkopf社は気を利かし、両箇所共にB♭で修正したのであろう。 上記の如く、この章で問題になっているホルンのシンコペーションのリズムを当初自筆譜に誤ったリズムで書いてしまったことに、初版印刷までに気付いて出版社に訂正を伝えたと考えられるように、この1楽章の場合も、その勘違いに彼自身気付けばよかったところだが、残念ながら気づかないまま印刷されてしまったのだろう。すなわち、彼がもし初版印刷までにこのミスを指摘されていれば、おそらくすぐに修正したに違いない過ちの部類ではなかろうか。その可能性を無視して、敢えて彼の書いてしまった音程(ミスによる)に盲目的に従うことに、私は異議を唱えたい。 これらは、ベートーヴェンの不注意な側面であり、彼も天才とは言えども、それまで幾度となく犯してきたこれらのミスは、同じ人間としてやむを得ない部分であり、我々演奏家がソロらのミスを上手くフォローしていかなくてはならないことを心して演奏して行かなければならない! 注; 初演の練習直前に出来上がったこの旋律を、奏者が事前に諳んじていたとは考えられず、初めて聴く提示部と再現部との整合性云々など誰にも解ろうはずもない。すなわち整合性云々を彼に質問することなど有り得なかったことに、新版の出版社は気付くべきであったのではないか。勿論ベートーヴェン自身は全く耳が聞こえなかった故、演奏中に音程の整合性云々など解ろうはずも無い。彼は他のどの曲でも、提示部と再現部間でこれほどまでに整合性の合わない主題は書いておらず、それから考えても、この不自然さを禁じ得ないD音は、彼の不注意から生じたものとする旧Breitkoph版の判断が正しく、B♭に統一する選択こそが彼の意思に真に従うことになると、私は98%の確率で信じている。 |
©Akira Naito
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