内藤が超名曲の常識を斬る‼
Correcting big mistakes in famous pieces


「第九」ベートーフェン交響曲第9番《合唱》第4楽章

マーチ331~
終曲まで 

ベートーヴェンがこよなく愛し頼りにしたメトロノームの数字。
それにも拘らず、総譜に彼の意図どおりの数字が正しく書き写されなかったがため起こった世紀の大悲劇!
(メトロノームのテンポ数字の、総譜への書き込みを任された甥のカールの幾種もの罪か?!)

 最初にメトロノームの数字が誤って記載され(カールの代筆による下記献呈譜や、カールの代筆によりショット社へ1826年10月13日に送ったテンポ表示表)、出版され(初版第2稿以降)て以来、ずっと受け継がれてきた致命的な、総譜へのテンポ表示の誤りを考証し、より良い数字を検証していく。
① ベートーフェンが交響曲第8番を書き終えた頃、メトロノームが発明された(1815年)。彼は、当時作曲し終わっていた第1番から第8番までの交響曲の主要箇所(AllegroやAndante等が付けられた箇所)のテンポ数字を、発明されたばかりのメトロノームで自ら積極的に測定し、それらの数字と、それらを記載すべき箇所を一覧表にして「ベルリン一般音楽新聞」紙上に発表した。
② 同様に「第九」も、初版(1826年7月印刷、8月末刊行)には間に合わなかったものの、その年の7月頃から初版の出版社(ショット社)からメトロノームの数字付けを強く要請されていたベートーフェンは、すでに刊行された初版とは別に、前記した如く、資金援助目的でWilhelmⅢ世に「第九」の浄書譜(自筆譜を書き写したした譜面)を献呈するため、新しく総譜の浄書を写譜師に依頼、それが出来上がった機会にテンポを測定し、その浄書譜に数値を書き入れることになった(注1)。
③ 9月下旬に新しく浄書された総譜を受け取ると(注2)すぐその作業に入ることにし、その作業日を9月27日と決めた。ところが運悪く?突然そこに、悲劇を生むことになる甥のカールが舞い込んできたのである(注3)。彼は2ヶ月前に自殺未遂を起こし2ヶ月間入院した後、9月25日に退院したばかりであった。当時クリスチャンが自殺を計るということは刑罰相当の重罪であり、翌26日には警察によるウィーンからの追放命令も出された。それを機会に紆余曲折の結果28日の朝、軍隊への入隊に反対するベートーフェンの思いを無視し、カールは自ら希望して軍に入隊するためウィーンを出立することになり、ベートーフェンが保護者として同伴することになった(注4)。
④ それまでの約3日の間に、ベートーフェンは
ⅰ)新しい献呈用浄書総譜に対し、すでに行った「第九」演奏の経験を踏まえ、カールが来る直前から始めていた、総譜への修正箇所に対する綿密な書き込みを完了させた(その時期は、結果としてベートーフェン没の半年前に相当し、これが彼自身による「第九」の総譜への最後の修正作業となった)。
ⅱ)WilhelmⅢ世への、献呈受諾に対する慇懃な程の感謝の手紙を書き、
ⅲ)第1~第8番までの交響曲の際と同様、総譜の主要箇所(テンポ変化のためのイタリア語による速度記号が書いてある箇所)に対し、メトロノームでテンポを測定し、その数字を一旦会話帳(耳が不自由であったため、他人との日常会話や、他にメモ帳としても広く使用された帳面のことで、その多くが現存している)にメモ書きした。通説では、ベートーフェンが測定したテンポをカールが会話帳に書き取ったことになっているが、その汚い文字はまさにベートーフェンの筆跡と思しきものであり、献呈稿に書き込んだとされるカールの筆跡とは似ても似つかない故、私はベートーフェンがテンポを測定し、それを会話帳に極めてずさんに書き込み、それを見て、カールが献呈稿に、解らないなりにも無理にそれらの数字を書き込んだ確率が極めて高く、それが原因で結果として現在にまで至る多くのテンポの書き込みミスが起こったと考えている(注6)。(彼は、1~8番の交響曲のメトロノーム付けの際も、そのように自分でメモ書きし、それを楽譜に自ら書き込むのではなく、音楽新聞社にそれらを一覧表?にして送り、次の版を印刷する際、そこに出版社の誰かが書き込むというやり方を採っていた。この「第九」も最初は同じように自らが測定したが、その数字を書き込んだ新しい浄書譜をすぐにWilhelmⅢ世に送らなければならなかったため、多忙な彼は、その数字を浄書譜に書き込む作業を甥のカールに任せた。)
ⅳ)さらには、急に決まったカールの入隊に付き添うための長旅の準備等もしなければならなかった。
ⅴ)そしてその翌日(9月28日・出立日)には、出立前にWilhelmⅢ世公に献呈譜を送付する手続きもしなければならなかった(注5)。
 その忙しい旅立の前日が27日にあたり、ここでベートーフェンは最悪な選択をしてしまったのである。つまり彼は、溺愛する甥カールに対し、日頃良かれと思い、いやがるカールに教育的指導等を何度も繰り返したことも原因の一つとなって、彼を自殺未遂にまで追い込んでしまったとの思いや、彼に対する精神的な癒しも必要との判断も有ってか(彼を信頼している証として?)、この大切な浄書譜へのメトロノームの数字付けという、信頼している者にしか任せられない重要作業を手伝わせるという大きな賭けにでた(注6)。
 上記ベートーフェンの、会話帳へのズサンな書き込みとは、書き込まれたメトロノームの数字が何分音符に対してのテンポ数字なのか、はたまたその数字が一体総譜のどの部分に該当するものなのか、等重要な必須要素が欠けているところが多数あり、内容的に全く不完全な会話帳への書き込みのことを指している(【図-1】)。すなわちこのメモは、重要な伝達事項としての体をなしているとはとても言い難いものであり、結果として、そのズサンなメモ書きが原因と思われる、テンポ記載に関する大きなミスが各所で生じることになった。その中でも特に重要な、致命的ともいうべき箇所は331小節からのマーチ開始部分であった。そこに書き込むべきメトロノームのテンポ数字 84 は会話帳に明瞭に書かれており、ベートーフェンの希望する数字であることは間違いない(【図-1】上段の最下行)。しかし、その84に対する単位の音符が“付点2分音符” に対してなのか“ ♩. ”に対してなのか、会話帳には全くヒントすら書かれていないのである。そのためカールは‟山勘で”どちらかに決め、献呈譜に書き込むしかなかったのだろう。ベートーフェン自身が献呈譜に直接書き込みさえすれば、たとえ会話帳へのメモ書きがズサンであっても、このような致命的な過ちは生じなかったはずである。
 【図―1】Beethoven 会話帳より
「第九」のメトロノーム付けのメモ

【図-1】に書きとられたメモ書きを見れば(上の図の最下段)、84の記載部分には他に6/8のみしか記載がなく、単位になる音符が書いてない。そしてそのようなズサンな書き方が原因となり、他にも後述するように、4楽章終結部(916小節~)のようなテンポ表示ミスや、総譜へテンポを記載出来ないまま放置せざるを得ないという悲劇が起きた。そのため、21世紀の今になってもなお、指揮者達はベートーフェンの望んだテンポとは限らない、まちまちのテンポでの演奏を選択せざるを得なくなっている。その原因は以下のとおりである。
 カールが献呈譜に書き込む際、すでに多忙なベートーフェンはその場には不在であり、質問を受ける事も不可能な状況であっただろうことに加え、カールはおそらく発明されたばかりのメトロノームで測定した数字の重要性をあまり理解していなかったのだろう、不明な点は山勘で書き込んでいたが(331小節のマーチ開始部分等)、曲の終結部分に至っては、せっかく会話帳に書かれている大切なテンポ測定値(88,80,60)が総譜のどの部分に該当し、上記マーチの部分と同様、何分音符に対して付けられるべき数字かが会話帳に全く書かれていなかったため、とうとう書き写す事すら放棄せざるを得なかったのである(【図-1】下段の下)。
 カールがプロの音楽家で誠実な性格なら、331小節のマーチ開始部に当初から書いてあった‟明るく快活に、ものすごく速いマーチのテンポで”というベートーフェンの指示から推測し、迷うことなく速い方の付点2分音符=84を選択したであろう。しかし、ズサンな性格だったからか、イタリア語の専門用語が理解できなかったのか、二十歳の誕生日を迎えたばかりの音楽の素人であるカールは、その注意書きの意味する重要性を理解しないまま、運悪く?結果として‟ものすごく遅いテンポで”に相当する ♩.=84 を選択してしまうという致命的過ちを犯してしまった。
 しかも最悪なことに、その後10月13日にそれら過ったメトロノーム数字等をカールが代筆して表にしたものが、そのままベートーフェンの目を通すことなく出版社(ショット社)に送られ、翌年早々にはパリやロンドン等にも演奏用の参考テンポとして送られてしまったのである(注7)。そしてメトロノーム数字を新たに載せた初版の第2稿は1年後の1827年秋に出版されたが、その際使われたメトロノームの数字は、カールの送ったものではなく、1827年3月18日に弟子のシンドラーがカールの書いたものを参考に代筆したものであった。そのためその時点でさらに筆写ミスが加わり(4楽章冒頭の付点2分音符=66が96に)、その大きなミスがつい最近まで(20世紀末まで)出版譜として一部の総譜に記載されたまま、我々にずっと悪影響を与え続けてきたのである(注8)。しかもその第2稿が出版される半年も前にベートーフェンは亡くなってしまっていた。この事実は、それら新規重要事項の正誤をベートーフェンがチェックしたり質問を受ける機会がなかったことを示している。上述したように、9月27日にベートーフェンがメトロノーム関連の仕事をすべて自分で行うか、カールに手伝わせるにしても、メモ帳に必要事項が全てもれなく正しく書かれているか、又は献呈譜への書き込みが正しいかをベートーフェンが確認してさえいれば、以下の項に記す「第九」の様々な‟致命的演奏慣習が現在にまで継承される”という《世紀の大悲劇》など決して起こらず、現在活躍する世界中の指揮者は、今まで指揮者自身も、またすべての聴衆をも信じ享受させられてきた誤ったテンポとは全く異なる、ベートーフェンが天国で喜ぶ快適なテンポで指揮でき、聴衆も今まで以上に歓喜していただろう!
(注1);すでに1826年8月に総譜は出版されていたが、新曲を献呈する場合には、印刷前の手書きの総譜を送ることが当時の慣習であり、ベートーフェンは9月下旬に届いたばかりのその献呈用の浄書譜を精査した上、3日間かけて最後の綿密な修正を加え、さらにはメトロノームの数字も書き込むことにより、出版譜よりも価値ある総譜であるとし、初版の総譜と一緒に同年10月初旬にWilhelmⅢ世公に献呈した。ベートーフェンが最後に目を通し、修正も施したという意味で、現存の総譜の中では一番彼の意思に近いものと言っても過言ではないだろう。Bärenreiter版のベートーフェン交響曲全集を編集したDel Marは、「この献呈稿にも他の指揮者等の筆跡の修正書き込みがあり、全ての修正がベートーフェンによるとは言えないから自分の版にそれらの書き込みは採用しなかった」と私に語った。
 しかしこれは明らかに誤りであろう。何故なら、新しく総譜の写譜がベートーフェンに届けられてから(9月下旬)(注8)ベートーフェンがウィーンを発った9月28日までのわずか数日の間に、上述の如く3日間かけて修正し、27日にはその総譜を使ってメトロノームの数字を決めたわけで、その間にその総譜が他人の手に亘り、そこで総譜を初めて見たその人が、待ち構えていたように訂正すべき箇所を即刻見つけ出し、ベートーフェンに許可なく急遽それらを書き込み、しかもその日のうちにすぐベートーフェンの手に戻され、さらにはベートーフェンがその修正?を確認もせず容認し、大至急Wilhelm3世に献呈したなどという、Del Marのストーリーは明らかに不自然で、あり得ないことである。修正箇所の筆跡も彼が信じる“他人の筆跡”とするより、他の箇所に書かれた彼の筆跡を見る限り、この献呈版の修正筆跡は、限りなくベートーフェンのものに近いと私には判断できる。この、他人がその新しい浄書譜を手を入れることなど時間的にも不可能であることを見落としていた、新版出版の功労者Del Marによって、せっかくのそのBärenreiter版新ベートーフェン交響曲全集の校訂の中に、この重要なベートーフェンの最終意思が生かされなかったことは誠に残念なことである。
(注2)(注3)(注4)(注5)(注7);セイヤー/ベートーフェンの生涯下巻第39章
(注3);カールは、軍隊に入隊する前数日をBeethovenからの強い誘いにより彼の家で過ごした。その際に結果としてメトロノームの誤った数字付けを犯すことになった。
(注6);既述したとおり、これはベートーフェンの研究史に反する?主張となるが、“カールがベートーフェンからテンポ数字等を聞き取って会話帳に書き込んだ”としているその会話帳にカールが書き込んだということ自体が過ちである可能性が高く、その根拠の一つとして、現在の研究では多く存在すると言われている、シンドラー等の弟子による会話帳の改ざん例の一つではないかと私は疑っている。つまり、ベートーフェンがメトロノームの数字を測定し、それをカールに伝えてカールが会話帳に書き込んだとする、多くの矛盾をはらんだ会話帳への書き込み話は、弟子の改ざんであり、前述の如く筆跡等から、私は少なくても会話帳に数字等を書き込んだのはベートーフェン自身であり、それを献呈するための浄書譜に書き込んだのが、カールであったとする方が、筆跡等各種事実からも信憑性が高いからである。
(注8);セイヤ―/ベートーフェンの生涯下巻第40章
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