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東京合唱協会 ─ Tokyo Choral Society

東京合唱協会誕生(1984年4月)と東京ニューシティ管弦楽団の前身誕生(1985年4月)を後押しした、世の中のバブル景気と第2次ベビーブーム

1984

36

第2次ベビーブーム到来で活気ずくオーケストラや合唱団等による、
各学校体育館への出張コンサート。

 私内藤彰がまだ桐朋学園に籍を置いていた1970年代後半頃から登場し始めた、第2次ベビーブーム世代の子供達。彼らの登場により年々急激に増加する一校当たりの生徒数。それにより学校サイドでは、例えば生徒一人から500円だけ徴収しさえすれば、招聘の仕方によっては小編成の楽団を自分の学校に招いて体育館で演奏させることが可能になった。運よく?その恩恵を受けた一人が内藤や、当時のフリーの奏者(唱者)であった。それまでに学校での公演実績を多く積んでいた私には、学校と演奏者との間に入るマネージャー(にわかマネージャーも含む)から、学校単位での出張鑑賞教室用臨時楽団の組織を依頼されるようになっていった。当時私は若輩者ではあったが、一定の信頼を得ていたのであろう。今の指揮科の学生と比べ、例え小さな規模での公演とはいえ、多くの経験を積めたという点では、私は幸運であったと言える。
  1980年4月~1983年3月までの3年間、内藤は山形交響楽団の専属指揮者として、東京と山形とを行き来していたが、その間山響で多くの学校公演を指揮した他に、東京でも同様な仕事や、好きな歌の世界で、有名オペラ団体の副指揮者をやったり、小さなオペラグループの本番を振ったりしていた。当時は過熱する学校コンサートの仕事を獲得するために、個人事務所を含む大小さまざまな音楽事務所が学校との交渉を続け、同じ楽団が1日に2校は当然のこと、オーケストラでは1日に3校(午前中に2校回り、午後は別の学校で)をはしご演奏することは通常のことだった。3校公演すれば、1校当たりの出演料が少なくても、3倍すればそれなりの金額になり、仕事として学校と音楽事務所、それに演奏家の三者がウィンウィンになれたのである。
 音楽事務所からすると突然降って湧いてきたチャンスであり、せっかく公演を望む学校が多いにも拘らず、演奏する既成団体がスケジュールいっぱいで対応できない、あるいは、日常の運営経費を出演料に上乗せして公演費を算出している、既成有名楽団の要求する金額までは払えないのだが・・・、という現象がいたるところで起こっていた。そのため急ごしらえの臨時編成楽団を、フリーの演奏家が自主的に組んで直接学校や音楽事務所に売り込み、成立する公演も多かった。しかしその場合の雇用する側のリスクとして、臨時編成の楽団の場合、演奏させるまでどんな音がするやら何らの保証も無いということがあった。私も実際にものすごく低レヴェルなグループを指揮させられ、振っていて恥ずかしく、心の中で子供たちに“ごめん”と謝りながら、ただただ早く終了することを願って振っていたことも少なくなかった。音楽事務所からすると、そういったリスクを考えずに済む寄せ集め楽団に依頼できるかどうかも喫緊の課題であった。しかも良い意味で何でも事務所の言う事を聞いて演奏してくれ、低料金で便利に小回りの利く団体を探すことも急務であった。
 そこで白羽の矢が立った一人が、歌もオケもやっている内藤だったのだろう。オーケストラや合唱団を臨時編成して学校公演をやってくれないかとの要望が、何箇所かの事務所から来るようになった。指揮者に頼めば、単なる一奏者に頼んで寄せ集めしてもらうより間違いないだろう、との読みだったのだろう。私も自分が振る以上単なるお金稼ぎではなく、臨時編成でありろくに練習する時間がなくても、少しでも音楽的な演奏ができるようにと、生徒のためはもちろんであるが、結局は指揮者として今後大成していくための最初のステップとして、どんなところでも最高に音楽的な演奏が…、という指揮者として当然の気概を持っていたからだろう、その依頼は徐々に増えていった。
 前後して今の東京ニューシティ管弦楽団も、全く同様な要望がきっかけの一つになって組織することになったのだが、それより1~2年早く、当時オペラグループで一緒だった歌の仲間と、その状況を相談したところ、皆も稼ぎたかったのだろう、二つ返事で合唱団を作る事に協力をしようと、飲みながら話がトントン拍子て進んだ。それは1983年の秋のことであった。ちょうどそのころ、山響を辞めたばかりで時間的に余裕があったこともあり、さっそく日ごろ付き合いのある音楽事務所に、学校への営業を始めてもらった。ただその依頼のタイミングが晩秋であったため、次年度の営業としては遅かったのだが、それでも結果として創立1年目の84年度には、まだ合唱団としての実績が皆無であるにも拘らず、鑑賞教室だけでも10公演を受注した。

1983秋~85

1年目
36

東京合唱協会創立準備から第1回定期公演

前列右端が彰

最初の団員募集のチラシ

最初の団員募集のチラシである。各音楽大学や中心メンバー等によって適当な場所に貼られた。




前列右端が彰

初めての、学校向け音楽鑑賞教室用チラシ

初めての、学校向け音楽鑑賞教室用チラシである。これがマネージャーを通して多くの学校に郵送された。
創立当時、中心になってくれたメンバーは、1984年2月26日に市ヶ谷ルーテル教会で私の指揮の下、マタイ受難曲をオペラ化した公演をした際、ソリストや合唱、ピアノ伴奏で一緒だった者が十余名と、私がそれまでに知り合った、ソリストとしても通用するレヴェルのメンバーを中核とし、それに加え、1983年の12月ごろ各音大や「音楽の友」等に団員募集を行った。そして約40名の応募者に対し、豊島区青年館にて3月22日にオーディションを行い、約十名を採用した。受験者の大半は二十代半ばで、大学4年生から上は雑誌を見て応募した36歳までで、その時の最年長36歳の女声2人は、その後長く在籍し、2020年現在も縁の下の力持ちになってくれている。
オーディション後計8回の練習を重ね、待望の初公演は、6月12日の埼玉県鶴ヶ島町立杉下小学校であった。今から考えると、まだまだの演奏ではあったが、学校からはたいそう喜ばれ、安堵したことを未だよく覚えている。その後8月から9月にかけて計4日間、成城学園の東宝スタジオで映画「ビルマの竪琴」の吹き替え録音を行った。私が懇意にしてもらっていた山本直純氏の紹介であった(彼が音楽を監修していた)。
そして夏前には、せっかく一定の水準に達した演奏ができているのだから、今後を見据えてということで、赤字は承知の上で旗揚げ(定期公演)を行うことを主力メンバーと話し合い、第1回の定期公演を1885年3月2日に今はなくなった駒場エミナースで行った。選曲は、オペラの歌い手が団員に多かったこともあり、オペラ合唱曲集から始まり、あとは当時お世話になっていた先生方の関係で、直純先生の奥様の曲と湯山昭先生、そして高田三郎先生という、私の大好きな先生方の曲で構成した。

1983.2.14

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第1回定期公演の告知記事


第1回定期公演のチラシ

第1回定期公演のチラシ

第1回定期公演プログラム

第1回定期公演プログラム[ PDFで見る ]

第1回定期公演の告知記事(朝日新聞)

第1回定期公演の告知記事(朝日新聞)

第1回定期公演の告知記事(音楽旬報・当時月3回発行されていたクラシック音楽専門誌)

第1回定期公演の告知記事(音楽旬報・当時月3回発行されていたクラシック音楽専門誌)

19854

団内会報

団内会報

団内会報

当時はPCもなく、ガリ版刷りの、しかも大変汚い字による、当時中心的に協力してくれていたバリトンの又吉氏の直筆である。定期公演後の団員に向けた会報で第1回と書いてあるが、これが最初で最後の会報であった。
音楽舞踊会議

音楽舞踊会議

<雑誌>
音楽舞踊会議:東京合唱協会第1回定期演奏会評

19854

2年目

9月にはNHK高校講座で使用される楽譜の録音を行った。年間15公演

19864

3年目(34公演/年)

音楽教室用新しい宣伝パンフレット

公演の一部の写真が使われている。
ソロをうたっているのが初代ソプラノのパートリーダーで最年長の前中栄子氏。
音楽教室用新しい宣伝パンフレット

音楽教室用新しい宣伝パンフレット
[表(PDF)]

音楽教室用新しい宣伝パンフレット

音楽教室用新しい宣伝パンフレット
[裏(PDF)]

19867

第2~4回定期公演の告知記事(朝日新聞) 読売新聞 Harmony(全日本合唱連盟の年4回の機関紙) の3種類 と批評;週刊FM 音友9月号
第2~4回定期公演の告知記事(朝日新聞)

第2~4回定期公演の告知記事(朝日新聞)

読売新聞

読売新聞

Harmony(全日本合唱連盟の年4回の機関紙)

Harmony(全日本合唱連盟の年4回の機関紙)

週刊FM 音友9月号

週刊FM 音友9月号

19867

38

第2~4回定期公演プログラム

 山本直純氏のお世話により、日本のクラシック音楽の作曲家の団体である日本作曲家協議会との共同主催で、3日連続の作曲家自作自演シリーズを開催した。プログラムの表紙を見れば誰しもが驚く、日本を代表する有名作曲家のオンパレードである。しかもその方々が一堂に会し、無報酬で御自分の曲を指揮またはピアノ伴奏をするという、まさに夢の競演であった。当時NHK総合TVで、黒柳徹子氏と共に毎週共同司会で「音楽の広場」を人気番組にしていた芥川也寸志氏、「題名のない音楽界」の初代司会者黛敏郎、「オーケストラがやってきた」の直純氏、と毎週テレビの各局でオーケストラ関係の番組の司会を務めている人気の3人が、それぞれ1回ずつの公演の司会を務めた。当時大変な話題となり、各方面から拍手喝采であった。ただ、3日間で100人近い作曲家の知らない曲ばかりを歌うことになった合唱協会の面々の努力は大変なものがあり、かつ定期公演であるがため、どこからも出演料はもらえず、団員への支払いのために、私は多額の借金を抱え込んだ。
 創立3年年目にあたるこの年は、鑑賞教室が倍増し、年間30回を超したうえ、日本青年館における「名人劇場」出演や、レコーディング等の要望も受けるようになった。
第2~4回定期公演プログラム

第2~4回定期公演プログラム
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合唱の祭典批評記事 音友1986年9月号

合唱の祭典批評記事 音友1986年9月号
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1987

4年目 (33公演/年)

1987年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット

まだこのころの学校公演用プログラムの中のミュージカル曲は、現在主流のサウンドオブミュージックメドレーでもディズニーメドレーでもなく、マイフェアレディだけであり、しかもまだその中から2曲だけに振り付けをして歌い踊っていたことがプログラムを見ると判る。この頃になると、いろいろな音楽事務所が当団のチラシを利用し、それぞれの会社の特色を出しながら独自の営業をしてくれるようになった。このチラシは、発足当時から十数年間いっぱい仕事を回して頂いた東京ミックが利用したものである。
1987年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット

1987年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット
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1987年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット

1987年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット
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1987年7月

第5回定期公演(サントリーホール大ホール)

1987年7月18日
前年度に続き、日本作曲家協議会との共催による、作曲家自作自演シリーズ。前年度はあまりにも多くの曲を、定期公演であるが故、合唱団としてはノーギャラで行ったが、あまりにも大変であったので、この年は1日のみにして、直純氏の口利きで他に日本合唱協会といくつかの児童合唱団が参加した。

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第5回定期公演プログラム

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1988年4月

5年目 (84公演/年)

第6回定期公演(石橋メモリアルホール)

1988年4月23日
この年も同様に日本作曲家協議会との共催による、作曲家自作自演シリーズ。この年は、東京混声合唱団も加わり、日本合唱協会と当団で3日間を担当した。
第6回定期公演プログラム

第6回定期公演プログラム
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1988

40

 チラシは、この年から当団の営業に参加してくれた事務所が独自に作った宣伝用パンフレット。このころからの数年が、第2次ベビーブームの子供たちが同時に小中学校に在籍していたピークの時期であり、当団もこの年は公演数が一気に増え、一般コンサートを含むと計84公演に達した。同じ日での公演を望む学校があった場合には、近ければ午前と午後で移動して2校の公演を行い、方角が異なる場合には、合唱団を2グループまたは時によっては3グループに分けて同じ日に別々の学校で公演することもあった。オーケストラのように、楽譜さえ譜面台においてあれば、最悪の場合ぶっつけ本番でも一定水準の演奏は可能だが、当団の場合は、ミュージカル等で細かく振り付けがされており、そこも大きな売りであったため、合唱団を分けて公演をする場合は、その事前調整が大変であった。しかし、結果としてはほぼすべて無事に一定の水準を保って演奏できたと思っている。
 また、5年目にもなると、過去に公演をした学校からの再要望もあり、その為には別プログラムが必要ということで、複雑な振り付けを必要とするミュージカルの演目に、サウンドオブミュージックを加え、バラエティに富んだプログラムになるよう、他のプログラム構成にも手を加えていった。仕事数が多くなると、それに伴い各メンバーの収益も上がるという良い循環が起こるため、新しい複雑なレパートリーが増えても、皆頑張ってくれた。そして、過去にやってきた曲も、団員の中から多くの人たちの協力を得て、選曲、編曲、ちょっとした振り付け等、演奏面での進歩を重ねていった。ミュージカルの東京合唱協会のオリジナルの編曲や、その振り付けも、すべて団員の紹介で良い方々を紹介してもらい、現在に至っている。私内藤はそこまでの人脈もなかったので、多くの団員たちの多大な協力があってこそ現在があるのである。感謝!感謝!
1988年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット

1988年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット
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1988年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット

1988年用音楽鑑賞教室用宣伝パンフレット
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1988年11月

41

福岡県直方市でのファミリーコンサートのチラシ

下記の宮崎県での一般公演も含め、あいだに幾つかの学校公演を挟んだ一週間の九州演奏旅行であった。学校には子供が溢れ、バブル真っ只中だからこそ経営的にも可能な演奏旅行であった。このツァーは、互いに何らの関係もないフォルテ 音楽企画が福岡県を、そして作曲家の寺原伸夫氏が地元の宮崎県で御自分の曲を発表するということで、大いに尽力してくださり、成立したものであった。
福岡県直方市でのファミリーコンサートプログラム

福岡県直方市でのファミリーコンサートプログラム
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福岡県直方市でのファミリーコンサートプログラム

福岡県直方市でのファミリーコンサートプログラム
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 宮崎県延岡市において、ご自分の曲を披露し、凱旋するということもあり、地元の合唱団も招いてのファミリーコンサート等が。また、このコンサートには、偶然にもご主人がJRのリニアモーターカーの開発のため、宮崎に転勤になり、この地に住むことになった、当団創立以前からの同志であり、学校コンサートのプログラミング等に大いに協力をしてくれた釘本涼子氏の協力もあった。この新聞記事は、彼女の働きかけで地元新聞が大きく扱ってくれたものである。

向市公演地元新聞

向市公演地元新聞

向市公演地元新聞

向市公演地元新聞

1989年4月

6年目(61公演/年間)

第7回定期公演(東京文化会館小ホール)

 当団独自で開く2回目の定期公演であった。プロ合唱団としてそれなりに世間で評価されるためには、自主公演として、他の団体ではできない意義ある内容をやらなければ意味がない、との思いもあり、日本人作曲家による宗教曲をオーケストラ伴奏で初演するという、今までおそらく日本でやられたことがなかったであろう、画期的プログラミングを組んだ。オーケストラは当時まだ東京という名を冠しておらず、まだ定期公演を開く1年前のニューシティ管弦楽団の、小編成すなわちニューシティ室内管弦楽団であった。同楽団は、合唱協会と同様な経緯で、当団より1~2年後から同じように、私の個人楽団のような形で、学校公演を中心に活動し始めて3~4年目であった。
 高田三郎先生の曲以外は、この公演用に伴奏譜を2管編成管弦楽用に編曲したものであった。伊藤幹翁氏のミサプリバータは、ご本人はクリスチャンではないとのことだが、いわゆるミサの形式に則って書かれた、それは美しいものであった。三木稔氏の曲は、オーケストレーションが間に合わず、弟子に下請けをさせたのだが、とうとう本番の日の午前中のGPにも間に合わず、本番にぶっつけ本番であったが、何とか良い演奏をすることが出来た。これらの演奏は、このホームぺジ経由のYou Tubeにより聴くことが出来る。このころの合唱団はソプラノの岩井秀子氏が、コンサートマスター的にアンサンブルを引っ張ってくれていた。感謝!

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第7回定期公演チラシ

第7回定期公演チラシ

第7回定期公演チラシ

第7回定期公演チラシ

第7回定期公演プログラム

第7回定期公演プログラム
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1990年4月

7年目(77公演/年間)

第8回定期公演(東京文化会館小ホール)

 当時の内藤は、日本の合唱団が、好んで宗教曲を歌い、しかもまったく何らの意味も解らないまま、ラテン語やドイツ語の発音は云々とこだわり、歌う方も聴く方も結局は何も内容を理解しないまま演奏が粛々と行われていくという、今も流行っている演奏習慣に大いに違和感を持っていた。結局は日本語に訳したとしても、本質的な意味合いはほぼ誰にもわからないまま演奏されていくのではあるが、それでも多少なりとも理解して歌った方が良いはず! 、とヨハネ受難曲の全曲邦語訳に取り組んだ。その大作業には、当時バスパートで大いに力を発揮し、後にドイツの歌劇場とソリスト契約を結んだ大澤建氏に多大なる御尽力を賜った。感謝!

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第8回定期公演チラシ

第8回定期公演チラシ

第8回定期公演チラシ

第8回定期公演チラシ

第8回定期公演プログラム

第8回定期公演プログラム
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1991年4月

8年目(98公演/年)

第9回定期公演(東京文化会館小ホール)

この年の定期は、前2回とは違い、堅苦しくないポピュラーコンサート的なプログラミングであった。最後のステージの、サウンドオブミュージックメドレーは、日ごろ何度も学校公演でやってきたが、それを定期公演のために何度も練習を積むことによって、日ごろの公演も確固たるものにする目的もあった。それが30年たった今にも、徐々にブラッシュアップしながら繋がってきている。しかし私として一番力を入れたのは、女声合唱による山田耕筰作品集であった。今もそうだが、当時も名だたる日本のトップ歌手の録音を聴いても、全く感動しないのである。あんなに素晴らしい抒情曲なのに。誰の歌も皆抒情感不足なのである。これは、その当時よりさらに20年前、私が大学の学生指揮者をしていたころからの欲求不満であった。一つの4分音符や付点4分音符を、何故何の表情もなくぶっきらぼうに歌えるのか! その一つの音符の中に潜む情感、すなわち1音符内に必ず存在するわずかながらの膨らみや、目的の音符に向けた抑揚たっぷりのフレーズ感を、意味の良く理解できるはずの日本の詩の表現として、何故心豊かに感じられないのか! これが学校公演の仕事がたくさんあるから、という外的要因以上に、合唱協会を組織した大きな動機であった。他の先輩有名合唱団の非音楽的歌唱なんて、私には耐えられなかったのである。それで、第9回定期には、他人(合唱団員)をして如何に抒情的表現を出させ得ることが出来るか!という命題を私自身に課してプログラミングしたのである。結果はどうだったか30年も前のことなのでよくは覚えていないが、少なくても他の合唱団や、有名ソプラノソリストの表現よりはましであったはずだと信じている。これもこのホームページからその映像と共に聴くことが出来る。はたして?

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第9回定期公演チラシ

第9回定期公演チラシ

第9回定期公演プログラム

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1992

9年目(81公演/年)

この年は定期公演を開催せず、ひたすら学校公演に励んでいた。指揮は原則として内藤彰が行っていたが、いろいろ別の公演の指揮とぶつかっている日は、初期には家田厚氏や池田氏が行い、その後遠藤浩史氏に多く頼んでいた。ピアノ伴奏は、初期には高畑多恵氏と清水良枝氏が、4年目からは松村結子氏も加わった。

1993年9月

10年目(87公演/年)

第10回定期公演(北とぴあ)

1990年6月に第1回定期公演を行った東京ニューシティ管弦楽団(TNCO)は、中2年置いてこの年から、年2回の定期公演を行うようになった(2000年度からは年5回の定期公演、2020年には約10回行うようになった)。それにつれて内藤も多忙となり、合唱協会単独で定期公演をやった場合、公演のためのすべての業務を、専従事務局もない当団が行って行くことの煩雑さ回避の目的もあり、その後の定期公演は、不定期にTNCOとの共同主催で開催することになった。TNCOからすればハイレヴェルな合唱団を出演料なしで雇う感覚で、当団からすれば、通常オーケストラに伴奏を頼めば支払わなければならない出演料が無料になる、という理屈である。他の経費は原則として折版であった。
第10回定期公演チラシ

第10回定期公演チラシ

第10回定期公演チラシ

第10回定期公演チラシ

第10回定期公演プログラム

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1994年9月

11年目(83公演/年)

第11回定期公演(北とぴあ)

 フォーレのレクイエム ヴェルディのレクイエム等とは異なり、同じレクイエムでもいかにもフランスの響き、澄んだハーモニーが必須のこの曲のため、私は団員の得意なオペラティックに思いっきりヴィブラートをかけて歌う唱法を禁止し、出来る限りノンヴィブラートでハーモニー重視を要求した。今では団員の唱法もずいぶんレヴェルアップして、こういった唱法もかなり可能になったが、まだ当時は、そもそもノンヴィブラートで音楽を豊かに表現するなんてことを、私も含め大半の歌い手は勉強をしたこともなく、全くその技法を知らなかった。そのため、ヴィブラートを控えめにすると、ただただ無味乾燥な、ヴォリュームのない、アマチュアコーラスのような響きになってしまい、そういう意味では反省多き公演であった。これは、オーケストラの奏法にも共通することだが、ノンヴィブラートの唱法(奏法)で、如何に音楽を表現できるか、という極めてハイレヴェルな問題に、やがて挑戦をすることになる指揮者内藤と、合唱協会の面々であった。今では、TNCOの奏法も、当合唱協会の歌い方もこの頃を境に、随分レヴェルアップしてきた。良くも悪くもそのきっかけともいうべき公演であった。
第11回定期公演チラシ

第11回定期公演チラシ

第11回定期公演チラシ

第11回定期公演チラシ

第11回定期公演プログラム

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1995年7月

12年目(62公演/年)

第12回定期公演(北とぴあ)

ブルックナー:ミサ3番この曲にはソロの個所が結構多く出てくる。当合唱団は通常ソリスト集団と謳っている関係もあり、本来ならば4人のソリストが、ソロだけを歌う独唱パートを、以後の公演もすべて、ソリストを外部から呼ぶことなく、団員で平等にこなしてきた。当団には、通常アマチュアのコーラス団体等に頼まれ、そこでソリストをやっている人が多い故、誰に歌わせても皆立派に歌っていた。どちらかというと、お客様に対してというよりは、専門家同士である当団の仲間内で評価を上げたい(競争したい)という気持ちも、多くのソロを受け持つ団員の中には多かった。当然、どの雑誌評でも、団員が務めるソロには、いつも絶賛の言葉が載っていた。

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第12回定期公演チラシ

第12回定期公演チラシ

第12回定期公演チラシ

第12回定期公演チラシ

第12回定期公演プログラム

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1996年9月

13年目(64公演/年)

第13回定期公演(北とぴあ)

ベルリオーズ;荘厳ミサ

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第13回定期公演チラシ

第13回定期公演チラシ

第13回定期公演チラシ

第13回定期公演チラシ

第13回定期公演プログラム

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1997年9月

14年目(50公演/年)

第14回定期公演(北とぴあ);
オペラアリア・合唱曲集

 多くの団員にとって、得意の曲を集めて思いっきり歌ってもらった。もちろんアリアや重唱等のソリストは全員団員であり、お客様をうならせた。ただ、解ってはいたことだが、第2次ベビーブームが去り、これからは永遠に子供の減少が続いていく。残念ながら当団の本番数も毎年着実に減りつつあった。

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第14回定期公演チラシ

第14回定期公演チラシ

第14回定期公演チラシ

第14回定期公演チラシ

第14回定期公演プログラム

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1998年9月

15年目(63公演/年)

第15回定期公演(北とぴあ);
モーツアルト:レクイエム

 長野県は、以前から全県下を幾つかの地区に分け、各演奏団体が1日3校ずつ移動して鑑賞教室を開く制度がある。出演料は極めて低額なのだが、公演がまとまっているので、何とか採算が採れている。当団も時々採用されているのだが、この年はたまたま16日間もその仕事が回ってきたため、毎年減少している公演数も、この年だけは少々増えている。ただ団員は大変である。1日3校ずつ回る際の着替えの面倒もあるが、それだけではなく学校によって体育館内の舞台関係がみな違うため、わずかな時間の中で、振り付けのあるステージや、演出の関係で演奏中に出入りする際の各種確認を、すべての学校でやらなければならないからである。その分ただ立って歌うだけの他の合唱団よりは評判が良いのである。
第15回定期公演チラシ

第15回定期公演チラシ

第15回定期公演チラシ

第15回定期公演チラシ

第15回定期公演プログラム

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1999年9月

16年目(48公演/年)

第16回定期公演(北とぴあ);
ロッシーニ:スタバートマーテル

この年も、長野県で11日に亘る公演があったため、公演数の減少を何とか食い止めている。

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第16回定期公演チラシ

第16回定期公演チラシ

第16回定期公演チラシ

第16回定期公演チラシ

第16回定期公演プログラム

第16回定期公演プログラム [PDFで見る]

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