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東京ニューシティ管弦楽団 ─ Tokyo Newcity Orchestra ─
東京合唱協会誕生(1984年4月)と東京ニューシティ管弦楽団の前身誕生(1985年4月)を後押しした、世の中のバブル景気と第2次ベビーブーム
~1984年前期
~36歳
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第2次ベビーブーム到来で活気ずくオーケストラや合唱団等による、各学校体育館への出張コンサート。
その過熱なまでの公演要望により不足する楽団!
私内藤彰がまだ桐朋学園に籍を置いていた1970年代後半頃から登場し始めた、第2次ベビーブーム世代の子供達。彼らの登場により年々急激に増加する一校当たりの生徒数。それにより学校サイドでは、例えば生徒一人から500円だけ徴収しさえすれば、招聘の仕方によっては小編成の楽団を自分の学校に招いて体育館で演奏させることが可能になった。運よく?その恩恵を受けた一人が内藤や、当時のフリーの奏者(唱者)であった。それまでに学校での公演実績を多く積んでいた私には、学校と演奏者との間に入るマネージャー(にわかマネージャーも含む)から、学校単位での出張鑑賞教室用臨時楽団の組織を依頼されるようになっていった。当時私は若輩者ではあったが、一定の信頼を得ていたのであろう。今の指揮科の学生と比べ、例え小さな規模での公演とはいえ、多くの経験を積めたという点では、私は幸運であったと言える。
1980年4月~1983年3月までの3年間、内藤は山形交響楽団の専属指揮者として、東京と山形とを行き来していたが、その間山響で多くの学校公演を指揮した他に、東京でも同様な仕事や、好きな歌の世界で、有名オペラ団体の副指揮者をやったり、小さなオペラグループの本番を振ったりしていた。当時は過熱する学校コンサートの仕事を獲得するために、個人事務所を含む大小さまざまな音楽事務所が学校との交渉を続け、同じ楽団が1日に2校は当然のこと、オーケストラでは1日に3校(午前中に2校回り、午後は別の学校で)をはしご演奏することは通常のことだった。3校公演すれば、1校当たりの出演料が少なくても、3倍すればそれなりの金額になり、仕事として学校と音楽事務所、それに演奏家の三者がウィンウィンになれたのである。
音楽事務所からすると突然降って湧いてきたチャンスであり、せっかく公演を望む学校が多いにも拘らず、演奏する既成団体がスケジュールいっぱいで対応できない、あるいは、日常の運営経費を出演料に上乗せして公演費を算出している、既成有名楽団の要求する金額までは払えないのだが・・・、という現象がいたるところで起こっていた。そのため急ごしらえの臨時編成楽団を、フリーの演奏家が自主的に組んで直接学校や音楽事務所に売り込み、成立する公演も多かった。しかしその場合の雇用する側のリスクとして、臨時編成の楽団の場合、演奏させるまでどんな音がするやら何らの保証も無いということがあった。私も実際にものすごく低レヴェルなグループを指揮させられ、振っていて恥ずかしく、心の中で子供たちに“ごめん”と謝りながら、ただただ早く終了することを願って振っていたことも少なくなかった。音楽事務所からすると、そういったリスクを考えずに済む寄せ集め楽団に依頼できるかどうかも喫緊の課題であった。しかも良い意味で何でも事務所の言う事を聞いて演奏してくれ、低料金で便利に小回りの利く団体を探すことも急務であった。
そこで白羽の矢が立った一人が、歌もオケもやっている内藤だったのだろう。オーケストラや合唱団を臨時編成して学校公演をやってくれないかとの要望が、何箇所かの事務所から来るようになった。指揮者に頼めば、単なる一奏者に頼んで寄せ集めしてもらうより間違いないだろう、との読みだったのだろう。私も自分が振る以上単なるお金稼ぎではなく、臨時編成でありろくに練習する時間がなくても、少しでも音楽的な演奏ができるようにと、生徒のためはもちろんであるが、結局は指揮者として今後大成していくための最初のステップとして、どんなところでも最高に音楽的な演奏が…、という指揮者として当然の気概を持っていたからだろう、その依頼は徐々に増えていった。
1984年後期~
1年目
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ニューシティ管弦楽団の前身①
トップナッチフィルハーモニー創立と改名
一方山響の指揮者になる以前から、東京近辺で多くの寄せ集めオーケストラで学校公演をやっていた関係で、“学校公演以外でも、もっと小回りの利くオーケストラがないものか、例え規模が小さくてももう少し低い予算でオーケストラを使えれば、いっぱい公演が出来るのに!”との声を多方面から多く聞いていた。そこでいつも顔を合わせる何人かの奏者を誘い、“当初は寄せ集めでも、良い演奏を続けていけば、必ずや発展していくだろう”という極めてありきたりではあるが正しい(甘い?)考えの下、多くの音楽事務所の支持を得て独自のオーケストラを設立し運営していくことにした。
メンバーも既成オーケストラに引けを取らないレヴェルの奏者が集ってくれたが、何しろ経営が大変なことは周知の事実である。そこでギターのリサイタルのオーケストラ伴奏をしたとき知り合った大橋知友氏の口添えで、新興の“トップナッチ株式会社”という、当時はやりだしたビデオテープを作成し輸出販売をしている会社を紹介してもらった。その社長が経済的援助をしてくれるというのだ。喜んで社長とも会い(そのときポケットにあったお金10万円を、準備金であるといってポ~ンと渡してくれた)、何度もスタッフと準備の会合を持った。楽団名は、会社の名まえを採って東京トップナッチフィルハーモニーとした。山本直純氏にも顧問をお願いし、氏の名前も載せた楽団(トップナッチフィルハーモニー管弦楽団)のパンフレットも作成し(パンフ①)、オーディションを1985年の4月28日に行った。初練習は6月3日に豊島区民センター5Fの音楽室で行われ、援助してくださるとおっしゃる議員さんも顔を出された。その時の響きは本当に素晴らしかった。ところが、7月20日に予定されていた初めての公演(協奏曲の夕べ)の直前に、大橋氏からその会社が破産したという連絡を受けた。取引先(輸出先)と思っていた会社が実は詐欺グループであり、会社の倉庫の在庫すべてを持っていかれ、連絡先不明でにっちもさっちも行かなくなったそうだ。小さな会社なので、そこで数億円の損失をカバーできなかったらしい。そのため、わずか1回の演奏会で解散という憂き目になってしまったのである(ただ、その名前ですでにいくつかの学校公演等が決まっていたので、名前だけは秋まで5公演分に使用した)。
トップナッチフィルハーモニー管弦楽団パンフレット
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1985年後期
38歳
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名称を東京ローゼンクランツ管弦楽団と改称
その窮状を見て、ベアート音楽事務所がそれでは自分のところである程度の面倒を見ようじゃないかという話を持ちかけてきた。翌1986年4月にその事務所がアーロンローザンドという著名なヴァイオリニストを呼ぶことになっており、“N響との共演以外にも自分の事務所主催でも協奏曲をやりたいと思っている”とのことであった。名前はローザンドのドイツ語的読み方にちなんで“東京ローゼンクランツ(バラの冠)管弦楽団”が良いということになった。それから半年近くの間、その事務所からの援助を期待して、依頼公演にはその名前を使った。もっとも、仕事の交渉を始めた時期により、未だ東京トップナッチフィルハーモニーの名前が使われたときもあり、臨機応変に都合の良い名前で公演を行った1年であった。しかし残念ながら、このローゼンクランツと言う名の下での援助も長続きせず、結局1986年の夏ごろからは援助無しのまま独自にやっていくことを決断するにいたった。ちなみに1985年と1986年には大半が小規模な公演であったが、それぞれ十数公演行った。大半が学校公演と、協奏曲やオペラアリアを楽団が企画した公演であった。
東京ローゼンクランツ管弦楽団
東京ローゼンクランツ管弦楽団の協奏曲公演の批評(音現)
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1986~1990
2年目
39歳~
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名称をニューシティ管弦楽団に改称
この年の秋から、援助に頼るための努力を諦め、完全な自主オーケストラとして、ニューシティ管弦楽団と命名し、本格的に活動を開始した。活動内容はそれまでと同じく、主に学校公演と、協奏曲やオペラアリアを集めたコンサートであり、時々バレエや合唱団の伴奏が入るといった感じで、年間30~40公演で推移していた。指揮の大半は私内藤彰が務めていた。演奏内容の評価は徐々に高まっていったが、経済的理由で定期演奏会をやっていないこともあり、社会的な知名度は残念ながら無かったと言わざるを得なかった。主だったメンバーはいつも8割方同じであり、アンサンブルとしてもそれなりに固定オーケストラに準じたものであったといえる。
1990年2月
6年目
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ソウル公演
1990年2月には、ローゼンクランツ管弦楽団の名まえのきっかけを作ったベアート音楽事務所のマネージメントで、初めての海外公演をソウルで行い、著名なソプラノ、レナータ・スコットのオペラアリアの夕べや、韓国のユニバーサルバレエ団とのジゼル公演、簡易な舞台装置による《魔笛》を演奏した。バレエは山響時代に1回振った後、日本国内でユニバーサルバレエ団を89年9月に数回振っただけであり、まだバレエ指揮の怖さを知らないまま、スケジュールの関係で練習を一度も見ることもできず、彼らの躍るテンポもダンサーとの約束事も一切ないままという、通常では絶対に有り得ない、有ってはならない状況の中、言葉の通じない多国籍のダンサーといきなり公演前のステージリハーサルが組まれていた。様々なテンポがあり得る中、前奏を如何なるテンポで始めるべきかをせめて知っておこうと、リハーサル直前に各ダンサーを廻り、口三味線で歌ってもらってそのテンポのメトロノームの数字を楽譜に書きみ、そのテンポで振った。書き込んだメトロノームのテンポで演奏することは私の得意とする一つであった。しかしダンサーはいい加減なもので、どのダンサーも自分で示したテンポとはまったく異なるテンポで踊りだし、散々なステージリハ(GP)になってしまった記憶は一生忘れることはできない。しかし本番では何とか彼らの思うようにテンポ操作ができたようで、終演後彼らがニコニコしながらブラーヴォマエストロとわざわざ言いに来てくれた時はほっとして肩の荷がおりたことを鮮明に覚えている。
1990年6月
6年目
42歳
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ニューシティ管弦楽団第1回定期演奏会(東京文化会館)
指揮 内藤彰
そして同じベアート音楽事務所の協力もあり、いよいよその年の6月14日(木)に東京文化会館でお披露目の第1回定期演奏会を開催した。チャイコフスキーの交響曲第4番と、同事務所が招聘していたヴァイオリニストのカヤ・ダンチョフスカのヴィニエァフスキーの協奏曲他であった。それまでのニューシティ管弦楽団(以下NCと略す)は、経済的な理由により比較的小編成で活動していた。まだいわゆる寄せ集めのオーケストラと揶揄される状態であったが、それまでのメンバー表を見ると毎回7割近くが同じメンバーであり、現在活動しているいわゆるメジャーオーケストラでは、毎回平均約8割しか同じメンバーではないことを考えると、そんなに大差なく活動していたことが伺われる。ただ定期公演は70名で行ったため、その分エキストラも多かった。メンバー表を見ると、その後いわゆる有名楽団のコンマスになった者がヴァイオリンの末端で弾いていたり、管楽器のトップで常時来ていた者や、時々頼んでいた奏者の中には、その後やはり有名楽団のトップ奏者になったものが数名活躍していた。今その時のビデオを見ると、大変懐かしい。また、現在も団員として契約してプレイしている者が数名、つい2~3年前まで来ていて定年(60歳)になった人も入れると十数名がこの定期演奏会に乗っていたことが判る。それから30年近くも苦楽を共にしてきたわけだ。ご苦労様でした。ありがとうございましたと心から言いたい。
その後、9月丸1か月かけて、ユニバーサルバレエ団の日本公演で、全国を回り、22回の公演を行った。ジゼル、韓国の民話シムチョン、他プルチネッラやライモンダ等であった。
第1回定期演奏会チラシ
第1回定期演奏会チラシ
1990年9~10月
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22公演に亘るユニバーサルバレエ団日本ツアー
1990年のお披露目の定期演奏会の後、8月末からユニバーサルバレエ団の日本ツァーで計21公演、福岡から宮城県までをくまなく廻った。①ジゼル②シムチョン(韓国の民話による創作バレエだが、素晴らしい曲と物語であった)③レ・シルフィード、ライモンダ、プルチネッラの三演目であった。ここで私がバレエ指揮者として大きな経験を積むことができたことは非常に大きい。但し経済的理由にて編成は30名ほどで、私がそれでも音楽にひずみが生じないよう譜面上の問題点をうまく解決する努力をした。一般にオペラやバレエの公演は、オーケストラが演奏する場所(オーケストラピット;舞台とお客様の席との間にあり、客席より約2m低い位置にある)と、踊り手が舞台奥で演ずるときには、ある程度の時間差を生ずる。そのため必ず舞台奥にはオーケストラの音を同時に聴けるようにするためのスピーカーが踊り手に向けてセットされている。私はそこに目をつけ、小編成である欠点を克服するため、どこのホールでやる時も、音響スタッフに頼んで、ステージのできるだけ奥から思いっきり大きなエコーをかけ、演奏者だけでなく客席にも大きく聴こえるようにしてもらった。こうすることにより、結果として生の音との間に微妙な時差が生じ、それがフルオーケストラが響きの良い会場で反響音を十分に伴って演奏しているときのような絶妙な響きになるのである。これが大当たりで、30名のオーケストラから客席にはあたかもフル編成で演奏しているようなオーケストラの響きを届けることができた。このシステムがその後のNC発展の大きな礎となったのである。ただ、こういった重要なからくりなど知る必要もない、経済的にNCより恵まれているメジャーオーケストラの係の人達の中には、オーケストラは常に編成どおり楽譜に書いてあるとおりにセットされなければならない、言い換えれば、そうなっていさえすれば現実がどんな響きになっていようがすべてOKという、私に言わせれば全くの素人としか思えない考えをもっている者が多く、そういう輩は何もわからないままNCのシステム(少人数で、足りないパートを補いながら、しかも足りない重量感を色々工夫して作り出すことによって、あたかもお客さんにはフル編成のオーケストラで演奏しているような臨場感を届ける)を批判する。しかし少しでも専門の勉強をしたものならばその批判が大きな誤りであることは容易に理解できるはずである。そういう批判を安易にする人たちは、そのような専門の勉強や経験を積んだことのない輩であり、経済的に裕福な団体のおごりでしかないのである・・・・という私の勝手なポリシーの下で、NCはあらゆる種類の注文に臨機応変に対応し、仕事数を急速に増やして行った。まだ専従の事務局員はおらず、東京合唱協会と同じく、団員が色々なお手伝いをして、一体となって演奏活動をしていた。ステージマネージャーも、ライブラリアンも団員が務め、メールはまだなく、FAXさえあまり普及してない中、メンバーの決定や連絡等の俗に言うインスペクターの役も、すべて少数のメンバーの中で問題なくこなしていた。それ故、事務局的経費はわずかで済み、楽譜や楽器も私の自宅に収納していた(小さな家に収納できるほどしか持っていなかったという言い方の方が正解かも)。それゆえ、よくある事務局と団員の対立などと言う無用な争いなど皆無の和気藹々とした、仕事の発注者からも聴衆からも、その演奏の姿に大きな好感を持って受け入れられる、言ってみれば、この頃は良い事ずくめの急上昇の運営であった。
1992年4月1日
8年目
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東京ニューシティ管弦楽団に改称
1993年9月1日
9年目
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東京ニューシティ管弦楽団第2回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
このころ、私は北区文化振興財団から委託を受け、新規に北区在住在勤在学による北区民オーケストラと3年後には同北区民混声合唱団を立ち上げ育成していくお手伝いをしていた。その関係で、北区の文化振興財団とはすこぶる関係良好であり、同財団との共催(会場費関係は財団持ち、広告とチケット販売協力)で、1993年度から年に2回定期公演を行っていく決断をした。どのプロオーケストラも、普通に定期公演を何回もやった場合、どんなにうまく経営しても必ず年に何億円かの赤字を被ることは当時も常識であった。さりとて、赤字覚悟でも定期公演を毎年何回か行なっていかないと、単なる寄せ集めの臨時編成オーケストラであると揶揄されることは必定であった。それを避け、将来の発展のためにも、北区から年に2回こういう形でお世話になれることは、幸運であった。そこで北とぴあでの最初の定期公演は、北区民混声合唱団の指導も何人かが行っている東京合唱協会も共同主催になり、ハイドンのオラトリオ「四季」をやることになった。東京合唱協会団員の多くは、日ごろソリストとして活躍している者が多く、この曲で通常なら各パート一人ずつのソリストが独唱パートのみを受け持つことが普通だが、合唱協会は、こういう曲のソリストとしてアマチュアの合唱団から招かれている者や著名なオペラ団体でもソロを受け持っている人達が、1曲ごとに交代し、どの曲も高い水準で歌いきる、というその後の合唱協会の生き方を決めることにもなる形式で行われた。
この年から十数年毎年練馬文化センターの新人演奏会の各部門の優秀者を迎えた協奏曲の演奏会を受け持つことになった。
また、この年から約十年毎年東京シティバレエ団の公演を受け持つようになった。ただ、東京シティフィルと共に、同バレエ団も江東区の提携団体になったため、伴奏は約十年後からはシティフィルが優先されるようになってしまった。
第2回定期公演チラシ
第2回定期公演チラシ
1994年3月22日
10年目
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東京ニューシティ管弦楽団第3回定期公演(東京文化会館)
指揮:アントングァダーニョ
共催:株式会社東京プロムジカ
この回から計8回近く(株)東京プロムジカや他の同業者の招へいする世界のトップクラスの歌手やピアニストとの、当団の定期公演における共催が時々持たれることになった。その他にプロムジカが招聘する歌手の伴奏のためにNCに伴奏を依頼してもらったことも数回ではなかった。第3回公演の指揮者は、NCとして初めての客演指揮者であるアントングアダーニョ氏であったが、ソロのMezzo Sopのテッラーニ含め、2人で最低でも5~600万円のギャラが必要で、会場費宣伝費等々800万円近い総経費がかかるところ、NCはそれらの金額を一切支払わず、その代わり自分たちの定期公演である故、もちろんプロムジカに楽団の出演料は請求しない、そしてチケットの2割分ぐらいを配給されるという形式であった。プロムジカとすれば、招聘した歌手のためにオケを雇えば300~400万円かかるところが、無料でオケを使うことが出来る。一方NC側からすれば、共催でなく単独開催ならば、ソリストに出演料として7~800万円支払わなければならないところ、楽員に支払うギャラ+雑費だけの支払いで済む、すなわち赤字は200万円ぐらいで済んで、ハイレヴェルなコンサートができ、お客さんも満足して帰ってもらえればこんなに良いことはない。もちろん、通常のオペラアリアの公演よりも、オケのみの、オケの定期として充分な曲もプログラムにはちりばめてあったことは言うまでもない。こういう形式で、私が指揮した公演も数回あった。
この年から毎年数公演「東京バレエ劇場」バレエ団の伴奏を受け持つことになった(これは代表の川島誠乃介氏が亡くなるまで、十年近く続いた)。また、この年から現在まで続けて毎年呼んでいただいている渋谷教育学園渋谷中学校高等学校とのお付き合いが始まった。当時はまだ渋谷女子中学校高等学校という女子校であり、主に渋谷公会堂で行っていたが、3年目の1996年から2000年までの5年間は、学校の講堂でキャパシティの関係もあり、毎回2公演行っていた。女子校故男子トイレが少ないのには難儀した記憶がある。でもとても質の良い生徒さんたちで毎年楽しみな公演の一つになった。
1994年3月22日
10年目
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東京ニューシティ管弦楽団第4回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
東京合唱協会第11回定期との共催公演につき、東京合唱協会の同公演の欄をご参照ください。
第4回定期公演チラシ
第4回定期公演チラシ
内藤彰のホームページ故、以降は内藤の指揮した公演のみのコメントになります。
1995年7月11日
11年目
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東京ニューシティ管弦楽団第6回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
東京合唱協会第12回定期との共催公演につき、東京合唱協会の同公演の欄をご参照ください。
尚、この年からは「日本舞台芸術振興財団(NBS)」という巨大組織からの伴奏の仕事を請け負うようになった。この年は「東京バレエ団の11公演を受注した。また、毎年のように7月に伴奏の仕事をいただいている「埼玉第九合唱団」とのお付き合いがこの年から始まった。
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第6回定期公演チラシ
第6回定期公演チラシ
1996年3月30日
12年目
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東京ニューシティ管弦楽団第7回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
第1回から30回頃までは、定期公演における著名なゲストソリストに対し、この第7回定期の千住真理子さん以外に、お金のない当団は1円たりとも出演料を負担したことはなかった。共催や協力等々様々な形で協力して頂いた方々におんぶにだっこで、おそらく彼らの支払ったソリストたちへの出演料は総計で数千万円にもなったであろう。最近では、安易にも?それぞれの所属する音楽事務所からソリストを買うことが多くなったが、当時は内藤の顔?で何とか金銭的にはうまくやっていた。しかし、千住さんには当団が言いなりに所属事務所に支払っても共演したいソリストであった。これが機会かどうかは定かでないが、以後特に学生相手の公演等で、彼女とは数回共演することになった。この第7回定期公演でも、お客様の顔の表情は満足そうであった。
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第7回定期公演チラシ
第7回定期公演チラシ
1996年9月8日
12年目
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東京ニューシティ管弦楽団 第8回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
東京合唱協会第13回定期との共催公演につき、東京合唱協会の同公演の欄をご参照ください。
この年の11月から翌年2月の頭まで、ここ数年営業を続けていた、ロシア関係の招へい業務では国内最大の会社であった「光藍社」から「ベラルーシ国立ボリショイ歌劇場バレエ団」を14公演、夏にはバレエガラコンサートを7公演に続いて、毎年ロシアから招聘していたレニングラード国立歌劇場管弦楽団の代わりに、同バレエ団の日本公演37公演を受け持った。大変安価な出演料に抑えられたとはいえ、この公演のためこの年は前年までの倍の公演数に膨れ上がった。
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第8回定期公演チラシ
第8回定期公演チラシ
1997年3月23日
13年目
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東京ニューシティ管弦楽団第 第9回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
ブラームスのピアノ協奏曲第1番の独奏をしたP.ミシュークを招へいしたのは渡部中子氏であった。彼女は特に当団の創立当初、ヨーロッパのクラシック音楽の世界における本人の多彩な交友関係を基に、個人的にも多くの外人ソリストを日本に招聘し、小さいながらも多くのリサイタルを主宰していた。そのつてをオーケストラにまで広げ、彼女が呼びたいと思ったそれなりのソリストを彼女の自前で招聘し、自らの幅広い輪を使ってチケットを独自に販売し、招聘に関わる一切の実務と経費を賄ってくれていた。招聘したタレントは皆プロの楽団のソリストとして十分なレヴェルに達しており、渡部氏と当団は、そういう意味でウィンウィンの関係であった。このP.ミシュークは、その後ロシア関係の招へいで当時日本で1,2を争う規模の光藍社に目を付けられ、それ以後数年の間、毎年40~50回の日本国内リサイタルを行うことになった。
第9回定期公演チラシ
第9回定期公演チラシ
1997年9月14日
13年目
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東京ニューシティ管弦楽団第 第10回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
東京合唱協会第14回定期との共催公演につき、東京合唱協会の同公演の欄をご参照ください。
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第10回定期公演チラシ
第10回定期公演チラシ
1998年3月22日
14年目
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東京ニューシティ管弦楽団第 第11回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
この回のチャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏したP.オロブニコフも渡部中子氏の招聘であった。
この年からは、谷桃子バレエ団の受注を十数年に亘って受けることになった。
第11回定期公演チラシ
第11回定期公演チラシ
1998年9月20日
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東京ニューシティ管弦楽団第 第12回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
東京合唱協会第15回定期との共催公演につき、東京合唱協会の同公演の欄をご参照ください。
第12回定期公演チラシ
第12回定期公演チラシ
1999年3月21日
15年目
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東京ニューシティ管弦楽団第 第13回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
ソリストは、2回目になるP.ミシュークであった。
この年からは、その後毎年のように依頼を受けるようになった、柏ヴォワモレス、志木第九の会、学習院OBブラームス合唱団、サウンドブリッジ合唱団からの初めての伴奏依頼が来た。
第13回定期公演チラシ
第13回定期公演チラシ
1999年9月23日
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東京ニューシティ管弦楽団第 第14回定期公演(北とぴあ)
指揮 内藤彰
東京合唱協会第16回定期との共催公演につき、東京合唱協会の同公演の欄をご参照ください。
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第14回定期公演チラシ
第14回定期公演チラシ
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