生い立ち ─ Profile

1980.4
0983.3

32歳

(社)山形交響楽団指揮者に就任

1980年3月で、もうそれ以上桐朋に籍を置くことができないというその2月に、たまたま(社)山形交響楽団の指揮者オーディションのお知らせを大学の掲示板で見た。さっそくそれに応募し、同楽団を何曲か指揮し、めでたく合格した。山響には創立指揮者の村川千秋氏がおられ、同楽団の指揮を折半する感じであった。それからは山形と東京で半々の生活が始まった。5月20日に早速デビューの定期公演が山形県民会館であった。その時両親が見に来てくれ、ホテルで地元の山形テレビのインタビューも見た両親は、公演後笑顔で楽屋に来てくれたが、母はそれが私の指揮姿を見る最後になってしまった。その後山形県各地でファミリーコンサート的な公演を多く指揮してきた(資料①)。しかし圧倒的に多かったのは地元の山形交通から払い下げられた古く、故障しがちなバスでの学校廻りであった。山奥の学校に行くと楽団より生徒の数の方が少ないところもあった。在籍した3年間に東北中の各県や新潟県をも含め、一体何校で公演をしたのか数え切れない。初年度の12月には山形県で初めてという県民挙げてのオペラ公演《フィガロの結婚》、翌年はやはり山響で初めてのバレエ公演《くるみ割り人形》を鶴岡市で行った。バレエ公演は私にとっても初経験であった。

30歳32歳

コンクールの年齢制限

山響の指揮者になったばかりの夏、3年前に小林研一郎氏が優勝し、その後一線の道を歩むことになったハンガリーの国際コンクールを受けようと思い、準備をしていた。小林氏が優勝した3年前は35歳が年齢制限であったので、まだ余裕があるはずだった。ところがその年になって突然年齢制限が32歳未満になったのである。実は3年前、カラヤン指揮者コンクールジャパンがカラヤンとベルリンフィルの主催で東京で行われたのだが、その時の年齢制限が10月1日現在30歳未満であった。私はその2日前の9月29日に30歳になってしまうのである!たった2日の違いなので、日本の実行委員会の、応募するだけでもしてみれば、という言葉を頼りに、願書を出した。しかしやはり年齢制限で受理されなかったのである。その時優勝したのが高関健氏であった。
そのハンガリーの国際コンクールだが、8月に開催される予定で7月初めが応募締切であった。32歳未満が発表されたのがその2ヶ月ぐらい前で、突然年齢制限を知らされた私は、スケジュールを空けていたので、コンクール直前に同じハンガリーで毎年開かれている国際指揮講習会に参加した。その時のオーケストラは、コンクールの時にも演奏を担当する楽団であった。何曲もあった講習曲中で、メインの曲はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」という拍子がくるくる変わる、指揮者にとってもたいそう難しい曲だった。しかし私はその曲を以前やったことがあり、おそらく参加者の中では一番経験豊富だったのだろう、受講者の中で最優秀者に選ばれ、最終日にその曲を聴衆の前で指揮することになった。その際、講習会の実行委員長でコンクールの事務局でもそれなりの地位にあった人が、もうすぐ開かれるコンクールにぜひ出てくれと言ってきた。私は、出たかったのだが年齢制限に引っ掛かった云々と言ったところ、その年突然年齢制限を下げたため、応募者が少なかったので、急遽例年通りの35歳までに戻したから、ぜひ受けてくれ、とのことだった。しかし課題曲がたくさんあり、ほんの数日後に開かれるコンクールには、いくらなんでも勉強が間に合わないことは明白なので、結局断念した。主催者側から私の講習会のお披露目公演の指揮を見てわざわざオファーしてきたのだから、駄目元でも出てみれば、たまたま自分の得意な曲ばかりを指揮する幸運に恵まれたかもしれなかったのでは?と今でも思うことがある。しかし、その逆の場合のステージ上での私のみじめな姿を想像すると‥‥、とても勇気が出なかったのである。遅くから指揮の道を選んだがための、運の悪い年齢制限のエピソードである。

30歳代前半頃

この前後数年、自分の人生の方向性に、マジ迷っていた

とりあえず山響の指揮者にもなり、まあそこそこ順調?に指揮者の道を歩み始めたとも言えたのだが、その頃になって、自分の高校、大学時代の友人や後輩の中に、大学の専攻を捨て、方向転換する輩の噂を何人も聞くようになった。多くが医者や弁護士だった。そういう職業を選ぶなら最初からその関係の学部に行けば簡単に行けるはずの者ばかりなのに、、高校時代にはその気がなかったのだろう。ちょうどそのころ私も30歳を過ぎ、指揮の道を進みつつも、今後の自分の人生、本当にこのままの方向で良いのか、それよりは医者(というよりは医学者)になって未知の分野での医学探求に一生をささげ、人のために役立つ方が自分の進む道としてはベターなのではないか、という迷いが疼いて止まらなくなっていたのである。それまでの自分の歩んできた道は、たまたまの偶然の連続で、とりあえず指揮者の道に来ているのだが、進む道は無数にあり、そこまでのどこかで偶然が重ならなければ、当然全く違う道を選び、しかもおそらくその選んだ道で、そこそこの成果を挙げ始めていただろう、と勝手な思いが頭の中でぐるぐる巡るのである。桐朋に指揮の勉強に来ていた後輩の中にも、慶応大学⇒芸大のヴァイオリン別科⇒桐朋で指揮専攻⇒結局医大に行き産婦人科の医者 という回り道をした者もいた。
自分も、まだ30代半ば頃までなら学費の安い国公立大学の医学部に、親の援助なく行き、医学者の道を選ぶところまでは容易なことであろうと、夢の中でも何度かその方向に進んだ自分の姿見たのである。欲張りと言えば欲張りだったのかもしれない。
しかし、山響や東京での毎日の指揮活動も、それはそれで好きで方向転換までして選んだ道なので捨て難く、結局数年続いたこの遅まきの葛藤には、30半ばになった所で結論を出し、2度目の方向転換に動き出すことはなかった。

1984.4

36歳

プロ混声合唱団「東京合唱協会」創立、音楽監督就任と母の死

多くの経験を積ませてもらった山響を1983年3月に離れ、その間に東京で行なってきた、規模は大きくないが種々のオペラ公演等で知り合った声楽家の人たちを中心に、プロの合唱団を作ることになった。私が音楽の道に来たきっかけは前述したように合唱であった。しかしそれまで聴いてきた多くのプロと称する合唱団の歌は、確かに声も凄いしうまいことは解かるのだが、何も心に響いてこない。機械的に商売として時間を切り売りしているとしか思えなかったのである(今もそれは変わらないのだが)。嫌であった!“経済的に困難だから技術の切り売りも”、なんて惨めっぽいことを言うなら音楽止めてしまえ!って言いたくなるのだ。何とかならないか、自分が指揮すればもっともっと心に響く歌になるはずだ! この思いが、苦労するだろうことは判っていたのだが、仲間と一緒に頑張ってみよう、そうそうチャンスは無いのだから!と思わせたのである。それまでに何人かのマネージャーとオーケストラの仕事で知り合い、その伝手をたどってとりあえずオーケストラと同じ学校公演の仕事から始めることにした。1984年3月22日にオーディションを行い、4月5日から6月8日までに7回の練習を積んだ後、6月12日に初めての学校公演を埼玉県鶴ヶ島町立杉下小学校で行った。大変喜んでもらえ、将来への夢が膨らむ思いで感激したことを覚えている。初年度は宣伝が遅れたにも拘らず、年間10校の学校公演を行い、それとは別に、個人的にお世話になっていた山本直純氏の新曲の録音や、8月には、東宝映画の《ビルマの竪琴》の音楽録音(埴生の宿他)を著名な俳優さんも交えて何日か行った。その前年、合唱団創立に向けて動いている1983年年11月8日に突然母が亡くなった。まだ63歳になったばかりでいかにも早い死であった。検査中に突然なくなったため、今なら医療ミスではないかという騒ぎにでもなっていたかもしれない。

1985.3.2

37歳

東京合唱協会第1回定期演奏会

旗揚げの第1回定期演奏会は翌年の3月2日に駒場エミナースで開催した(チラシ・プログラム①②)。プロとはいえ、出来高払いであったため、定期演奏会の練習とは言っても皆出席を義務付けるわけには行かず、11回の練習中7割以上の出席を義務付けた。朝日新聞の夕刊には事前に旗揚げの記事が出、また団員もある程度のチケットノルマを持ったこともあってか、ほぼ満員(500名)となった。《水のいのち》の高田三郎先生他、湯山昭氏、それに直純先生の奥様である岡本正美氏(難易度の高い女声合唱曲であった)等、作曲家の皆さまにもお越しいただいた。自分としては会心のできであったと思っている。しかし、覚悟はしていたが、プロ楽団を経営することは大変なことであり、この旗揚げ公演の前には自分の通帳が空となり、正規な金融機関からは私たちのような‘ヤクザ’な商売では融資を受ける事ことが出来ず、やむを得ず悪名高きサラ金に借りに行った。ところがである。高利さえ払えば簡単に借りることができると思っていたサラ金でも、門前払いにあったのである。このときの惨めな思いは一生忘れないであろう。結局は兄に頼み込み80万円を借りて何とかその場をしのいだ事を今も鮮明に覚えている。

1985.6.3

37歳

ニューシティ管弦楽団の前身
①トップナッチフィルハーモニー創立と解散

一方山響の指揮者になる以前から、東京近辺で多くの寄せ集めオーケストラで学校公演をやっていた関係で、“学校公演以外でも、もっと小回りの利くオーケストラがないものか、例え規模が小さくてももう少し低い予算でオーケストラを使えれば、いっぱい公演が出来るのに!”との声を多方面から多く聞いていた。そこでいつも顔を合わせる何人かの奏者を誘い、“当初は寄せ集めでも、良い演奏を続けていけば、必ずや発展していくだろう”という極めてありきたりではあるが正しい(甘い?)考えの下、多くの音楽事務所の支持を得て独自のオーケストラを運営していくことにした。メンバーも既成オーケストラに引けを取らないレヴェルの奏者が集ってくれたが、何しろ経営が大変なことは周知の事実である。そこでギターのリサイタルのオーケストラ伴奏をしたとき知り合った大橋知友氏の口添えで、新興の“トップナッチ株式会社”という、当時はやりだしたヴィデオテープを作成し輸出販売をしている会社を紹介してもらった。その社長が経済的援助をしてくれるというのだ。よろこんで社長とも会い(そのときポケットにあったお金10万円を、準備金であるといってポ~ンと渡してくれた)、何度もスタッフと準備の会合を持った。山本直純氏にも顧問をお願いし、氏の名前も載せた楽団(トップナッチフィルハーモニー管弦楽団)のパンフレットも作成した(パンフ①)。そしてオーディションが4月28日に行われた。初練習は6月3日に豊島区民センター5Fの音楽室で行われ、援助してくださるとおっしゃる議員さんも顔を出された。その時の響きは本当に素晴らしかった。ところが、7月20日に予定されていた初めての公演(協奏曲の夕べ)の直前に、大橋氏からその会社が破産したという連絡を受けた。取引先(輸出先)と思っていた会社が実は詐欺グループであり、会社の倉庫の在庫すべてを持っていかれ、連絡先不明でにっちもさっちも行かなくなったそうだ。小さな会社なので、そこで数億円の損失をカバーできなかったらしい。そのため、わずか1回の演奏会で解散という憂き目になってしまったのである(ただ、その名前でいくつかの学校公演等が決まっていたので名前だけは秋まで使ったが)。

1986.4

38歳

ニューシティ管弦楽団の前身
②東京ローゼンクランツ管弦楽団としての活動

その窮状を見て、ある音楽事務所がそれでは自分のところである程度の面倒を見ようじゃないかという話を持ちかけてきた。翌1986年4月にその事務所がアーロンローザンドという著名なヴァイオリニストを呼ぶことになっており、“N響との共演以外にも自分の事務所主催でも協奏曲をやりたいと思っている”とのことであった。名前はローザンドのドイツ語的読み方にちなんで“東京ローゼンクランツ(バラの冠)管弦楽団”が良いということになった。それから半年近くの間、その事務所からの援助を期待して、依頼公演にはその名前を使った。もっとも、仕事の交渉を始めた時期により、未だ東京トップナッチフィルハーモニーの名前が使われたときもあり、臨機応変に都合の良い名前で公演を行った1年であった。しかし残念ながら、このローゼンクランツと言う名の下での援助も長続きせず、結局夏ごろからは援助無しのまま独自にやっていくことを決断するにいたった。ちなみに1985年と1986年には大半が小規模な公演であったが、それぞれ十数公演行った。大半が学校公演と、協奏曲やオペラアリアを楽団が企画した公演であった。

1986.9
1990.3

39歳

名称をニューシティ管弦楽団に改称

この年の秋から、援助に頼るための努力を諦め、完全な自主オーケストラとして、ニューシティ管弦楽団と命名し、本格的に活動を開始した。活動内容はそれまでと同じく、主に学校公演と、協奏曲やオペラアリアを集めたコンサート(資料①~③)であり、時々バレエや合唱団の伴奏が入るといった感じで、年間30~40公演で推移していた。指揮の大半は私内藤彰が務めていた。演奏内容の評価は徐々に高まっていったが、経済的理由で定期演奏会をやっていないこともあり、社会的な知名度は残念ながら無かったと言わざるを得なかった。主だったメンバーはいつも8割方同じであり、アンサンブルとしてもそれなりに固定オーケストラに準じたものであったといえる。

1986
1987

38歳40歳

東京合唱協会第2~5回定期演奏会

東京合唱協会(GK)のこの2年間で特筆される活動は、何と言っても定期演奏会における作曲家協議会との共同主催による4回の定期演奏会である(資料①~④)。これは山本直純氏の提唱、仲立ちにより、作曲家協議会に属する作曲家本人が自らの曲を指揮または伴奏するという自作自演シリーズである。和田誠さんによる作曲家や私の顔のイラストが載った大きなチラシ兼プログラムは大いに話題を呼び、雑誌にも多く取り上げられた。ちなみに司会者は当時TVに番組を持っていた、山本直純氏、黛敏郎氏、芥川也寸志氏であった。他の公演は年に三十数回で、コロンビアレコードでの録音や、日本青年館でのイベント参加以外はほとんどが学校公演であった。

1988.4
1998

40歳

東京合唱協会公演回数急増

合唱協会は、‘皆がソリストを務められるレヴェルである’ことを標榜している。実際に「第九」のソロを始め、有名劇場でソリストを務めるものが多く団員になっていた。オーディションでもそういう観点を重視して選考していた。それもあってか、児童数が急増してきたからか、はたまた景気が非常に良かったからか、仕事の要請がうなぎ登りになってきた。嬉しい悲鳴である。この年公演数はほぼ倍増し、これから1995年度の91公演をピークに、約10年、毎年60~70公演が続くことになる。私もオーケストラの合間に貧乏暇無しで大変であった。この頃の最終ステージは、マイフェアレディのメドレーで踊って歌って楽しく締めくくっていた。その後徐々にサウンド・オブ・ミュージックメドレーに移行して、現在はディズニーメドレーの踊りと歌が一番評判が良い感じである(こういった経験の積み重ねが、2007年以降文化庁からの仕事を受注し、文化庁から現在も大変高い評価を受けるようになる礎となった)。皆凄い声をしていながら、ハーモニーを重視するため、独唱の時のような勝手なヴィブラートは極力回避する訓練も徐々に行き届いていった。自分が振っていて惚れ惚れする楽しくも高水準な学校公演も増えてきた。団の運営上の各種係りはすべて団員がこなし、専従事務局員は未だにいない。それでも事務局を数名抱えている団体と同じだけの活動が、しかも和気あいあいと行われていることが、我々の大きな自慢の一つであり、プロ楽団の成功例の一つとして世間に誇る事が出来ると私は常々思っている。

1990.2

42歳

ニューシティ管弦楽団韓国公演

1990年2月には、ローゼンクランツ管弦楽団の名まえのきっかけを作ったベアート音楽事務所のマネージメントで、初めての海外公演をソウルで行い、著名なソプラノ、レナータ・スコットのオペラアリアの夕べや、韓国のユニバーサルバレエ団とのジゼル公演、簡易な舞台装置による《魔笛》を演奏した。バレエは山響時代に1回振った後、日本国内でユニバーサルバレエ団を89年9月に数回振っただけであり、まだバレエ指揮の怖さを知らないまま、スケジュールの関係で練習を一度も見ることもできず、彼らの躍るテンポもダンサーとの約束事も一切ないままという、通常では絶対に有り得ない、有ってはならない状況の中、言葉の通じない多国籍のダンサーといきなり公演前のステージリハーサルが組まれていた。様々なテンポがあり得る中、前奏を如何なるテンポで始めるべきかをせめて知っておこうと、リハーサル直前に各ダンサーを廻り、口三味線で歌ってもらってそのテンポのメトロノームの数字を楽譜に書きみ、そのテンポで振った。書き込んだメトロノームのテンポで演奏することは私の得意とする一つであった。しかしダンサーはいい加減なもので、どのダンサーも自分で示したテンポとはまったく異なるテンポで踊りだし、散々なステージリハ(GP)になってしまった記憶は一生忘れることはできない。しかし本番では何とか彼らの思うようにテンポ操作ができたようで、終演後彼らがニコニコしながらブラーヴォマエストロとわざわざ言いに来てくれた時はほっとして肩の荷がおりたことを鮮明に覚えている。

1990.6.14

42歳

ニューシティ管弦楽団待望の第1回定期演奏会

そして同じベアート音楽事務所の協力もあり、いよいよその年の6月14日(木)に東京文化会館でお披露目の第1回定期演奏会を開催した。チャイコフスキーの交響曲第4番と、同事務所が招聘していたヴァイオリニストのカヤ・ダンチョフスカのヴィニエァフスキーの協奏曲他であった。それまでのニューシティ管弦楽団(以下NCと略す)は、経済的な理由により比較的小編成で活動していた。まだいわゆる寄せ集めのオーケストラと揶揄される状態であったが、それまでのメンバー表を見ると毎回7割近くが同じメンバーであり、現在活動しているいわゆるメジャーオーケストラでは、毎回平均約8割しか同じメンバーではないことを考えると、そんなに大差なく活動していたことが伺われる。ただ定期公演は70名で行ったため、その分エキストラも多かった。メンバー表を見ると、その後いわゆる有名楽団のコンマスになった者がヴァイオリンの末端で弾いていたり、管楽器のトップで常時来ていた者や、時々頼んでいた奏者の中には、その後やはり有名楽団のトップ奏者になったものが数名活躍していた。今その時のビデオを見ると、大変懐かしい。また、現在も団員として契約してプレイしている者が数名、つい2~3年前まで来ていて定年(60歳)になった人も入れると十数名がこの定期演奏会に乗っていたことが判る。それから30年近くも苦楽を共にしてきたわけだ。ご苦労様でした。ありがとうございましたと心から言いたい。
その後、9月丸1か月かけて、ユニバーサルバレエ団の日本公演で、全国を回り、22回の公演を行った。ジゼル、韓国の民話シムチョン、他プルチネッラやライモンダ等であった。

1988.11

41歳

その他の活動 ●北区民オーケストラ ●北区民混声合唱団 ●その他

●1988年夏、北区文化振興財団から、‘新設予定の北区民オーケストラの最初のオーディションから関わり、ずっと指導育成をして欲しい’という依頼を受けた(資料①②)。その後20年近くも続き、現在もNCの公演等で続いている、北区と内藤(NCと合唱協会)との密な関わりの始まりであった。全くのゼロからの組織作りで、他のアマチュア楽団のように、何らかの母体があるわけでもなく、当初は難しすぎてついていけないという者、逆にこんなレベルでは物足りないという者等々、バランスをとるのが結構大変であったが、バブルの頃の公的援助に‘おんぶに抱っこ’のおかげで、徐々にレベルを上げていった。●2年後の1990年7月22日に今度は同じ北区文化振興財団が、混声合唱団を組織することになり、オーディションが行われた。財団からは、“北区の意向としては、すでに北区内に多くの合唱団があるので、それらとは一線を画するようなレヴェルの合唱団にしたい”とのことであった。ただ一方ではできるだけ多くの区民に参加機会を与えるため、既成の合唱団に入っている人はそれぞれから2~3人までを入団枠としてオーディション無しでの入団を認め、他のメンバーは、各年齢層から満遍なく均等に入団させる等々の制約があった。結局はどうしたら良いのか、今ひとつ不明な点もあったが、好きな合唱であり、かつ年に1回の定期演奏会ではNCを伴奏に付けるなど、なかなかめぐり合えない好条件であった。そして8月22日に初練習があり、翌1991年4月13日(土)に北とぴあで第1回定期演奏会が開かれた。メインはモーツァルトのレクイエムであった。初めての定期演奏会とはいえ、合唱経験者が多いこともあって、結果は大変良いものであった。そして主催の北区文化振興財団から一人の新人女性(役所の移動で4月に財団に配属されたが忌引きの関係でその日が初出勤であった)が、ステージに花束を持って出てきた。私の知らない女性であり初対面であったが、彼女が1年後私の妻になるとはそのときは知る由もなかった。オーケストラも合唱団もその後20年近く一緒に歩んだが、両団体に外からソリストを頼んでのオペラ《カルメン》や《道化師》等今も記念すべき公演として記憶に新しい(資料④)。現在のような不況下では、そのころのような区からの援助はなかなか難しくなっているようである。

1990.8

42歳

ユニバーサルバレエ団日本ツァーとニューシティ管弦楽団のその後の方向性

1990年のお披露目の定期演奏会の後、8月末からユニバーサルバレエ団の日本ツァーで計21公演、福岡から宮城県までをくまなく廻った。①ジゼル②シムチョン(韓国の民話による創作バレエだが、素晴らしい曲と物語であった)③レ・シルフィード、ライモンダ、プルチネッラの三演目であった。ここで私がバレエ指揮者として大きな経験を積むことができたことは非常に大きい。但し経済的理由にて編成は30名ほどで、私がそれでも音楽にひずみが生じないよう譜面上の問題点をうまく解決する努力をした。一般にオペラやバレエの公演は、オーケストラが演奏する場所(オーケストラピット;舞台とお客様の席との間にあり、客席より約2m低い位置にある)と、踊り手が舞台奥で演ずるときには、ある程度の時間差を生ずる。そのため必ず舞台奥にはオーケストラの音を同時に聴けるようにするためのスピーカーが踊り手に向けてセットされている。私はそこに目をつけ、小編成である欠点を克服するため、どこのホールでやる時も、音響スタッフに頼んで、ステージのできるだけ奥から思いっきり大きなエコーをかけ、演奏者だけでなく客席にも大きく聴こえるようにしてもらった。こうすることにより、結果として生の音との間に微妙な時差が生じ、それがフルオーケストラが響きの良い会場で反響音を十分に伴って演奏しているときのような絶妙な響きになるのである。これが大当たりで、30名のオーケストラから客席にはあたかもフル編成で演奏しているようなオーケストラの響きを届けることができた。このシステムがその後のNC発展の大きな礎となったのである。ただ、こういった重要なからくりなど知る必要もない、経済的にNCより恵まれているメジャーオーケストラの係の人達の中には、オーケストラは常に編成どおり楽譜に書いてあるとおりにセットされなければならない、言い換えれば、そうなっていさえすれば現実がどんな響きになっていようがすべてOKという、私に言わせれば全くの素人としか思えない考えをもっている者が多く、そういう輩は何もわからないままNCのシステム(少人数で、足りないパートを補いながら、しかも足りない重量感を色々工夫して作り出すことによって、あたかもお客さんにはフル編成のオーケストラで演奏しているような臨場感を届ける)を批判する。しかし少しでも専門の勉強をしたものならばその批判が大きな誤りであることは容易に理解できるはずである。そういう批判を安易にする人たちは、そのような専門の勉強や経験を積んだことのない輩であり、経済的に裕福な団体のおごりでしかないのである・・・・という私の勝手なポリシーの下で、NCはあらゆる種類の注文に臨機応変に対応し、仕事数を急速に増やして行った。まだ専従の事務局員はおらず、東京合唱協会と同じく、団員が色々なお手伝いをして、一体となって演奏活動をしていた。ステージマネージャーも、ライブラリアンも団員が務め、メールはまだなく、FAXさえあまり普及してない中、メンバーの決定や連絡等の俗に言うインスペクターの役も、すべて少数のメンバーの中で問題なくこなしていた。それ故、事務局的経費はわずかで済み、楽譜や楽器も私の自宅に収納していた(小さな家に収納できるほどしか持っていなかったという言い方の方が正解かも)。それゆえ、よくある事務局と団員の対立などと言う無用な争いなど皆無の和気藹々とした、仕事の発注者からも聴衆からも、その演奏の姿に大きな好感を持って受け入れられる、言ってみれば、この頃は良い事ずくめの急上昇の運営であった。

1991.1

43歳

海外のオーケストラの指揮

●そのころ初めて海外での指揮のチャンスがめぐってきた。1991年12月20日に、当時独立戦争真っ直中の、今はなきユーゴスラビアを代表する、国立ベオグラートフィルハーモニックである。当時戦争の報道は日本でも毎日なされていたが、それはユーゴスラビアから独立しようとしていた、周辺に位置する国々との国境周辺のことであり、首都ベオグラード(現セルビアの首都)は非常に静かで綺麗な古都であった。練習初日には国営テレビがインタビューに来たが、突然のことで、言葉がスムーズに出ず、先方に大変迷惑をかけてしまったことは今でも慙愧に堪えない。(この時、せめて英語ぐらいは流暢にしゃべれなければ・・・、と痛切に感じたことが、その後無数ともいえる語学の本やCDを自分の部屋に集め、その上に厚い埃をかぶらせることになった。) 曲目はオールモーツァルトプログラムで、41番がメイン。まだピリオド奏法(作曲当時に行われていた奏法)など知らない私とオーケストラはヴィブラートいっぱいの、まるで非モーツァルト的演奏であった。
●翌年11月には、社会主義国家の崩壊に伴う国立オーケストラの縮小や解散の憂き目に会っている新ロシアに、国立に変わって組織されだした、当時の新興成長企業のスポンサーシップによる民間オーケストラの一つ、モスクワ交響楽団であった。練習に初めて行った日、団員から言われた言葉で印象的だったのは“先月何人かが団を辞めて日本人が作ったオーケストラに移った”である。私には何のことかそのときは分からなかった。後から知った話だが、ちょうどその頃オウム真理教は、まだサリン事件を起こす前で、一番華やかかりし頃だった。当時のロシアの国立オーケストラの給与は月3000円ぐらいであったところ、オウムが月1万円もくれるというので皆移りたがったというのである。日本で言えば月給数十万円~百万円に相当する価値であった。その後その教団オーケストラを日本で2回聴くことになったが、日本の音大を出たという信者が指揮者となり、あたりまえのチャイコフスキーをやった以外は麻原彰昂作曲と称するつまらない曲であった。しかし演奏レベルは素晴らしく、さすがかつて名だたる世界的有名オーケストラにいた人たちだけあって、高度な演奏技術は健在だった。モスクワ交響楽団の公演は、かの有名なモスクワ音楽院の大ホールで行われ、音楽院のピアノの先生がラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾いた。しかし私には2番と言う情報が来ており、練習日になって初めてそのことを知った私は、まだ3番を振ったことがなく、真っ青になり、その曲の練習を翌日に回してもらい、その晩急遽勉強をしたことを覚えている。旧共産圏ではその手の間違いは日常茶飯事とのことだそうだ。それにしても音楽院の講堂であるが故、いくら有名なホールといえども専用楽屋がないことにはびっくり、指揮者用の譜面台も木製でがたがた揺れっぱなしであった。オーケストラの曲としては、私が全く知らなかった現代ロシアの作曲家スヴィリドフの「吹雪」であった。30分位かかるが、そんなに重要視されていないのか、普段は適当にしか演奏されていないらしく、私の渾身の指揮に団員からのブラーヴォと、5回のカーテンコールがあり、嬉しかった。

1993.9.1

45歳

ニューシティ管弦楽団第2回定期演奏会

北区文化振興財団から、北区民オーケストラと北区民混声合唱団の設立からずっと育成を任せられた関係で、当時バブルの真っ盛りで経済的余裕があったことも手伝い、財団との共催で以後年に2回ずつ定期演奏会を北とぴあで催すことになった。当時日本オーケストラ連盟に加盟するためには年5回ずつ定期演奏会をやらなくてはならず、大赤字になるこの種の公演をそれだけ主催することは不可能であった。しかし、“寄らば大樹の陰”で、どこかの公的組織に加盟することが急務でもあった。そこで、年2回以上の定期演奏会を、3年以上続ければ加盟資格が得られると言われた(後から判明したのだが、実はそのような資格条件はなかったらしいが)当時の日本マネージメント協会(俗称マネ協)に加盟することが当面の目標であったことも、北とぴあでの年2回の定期演奏会を始める大きな要素であった。そして東京合唱協会との共同定期演奏会の形で、ハイドンの「四季」を演奏曲目に選んだ。赤字は、同合唱団との折半であっため、多少なりとも少額で済み、以降この組み合わせの定期演奏会が増え、同合唱団の演奏レヴェルの高さも手伝って、常に高い評価を得るようになった。

1996.5

48歳

海外の歌劇場の指揮

●1996年5月ロシアのモスクワから南へ約1000kmのヴァローニッシュ国立歌劇場で《セヴィリアの理髪師》を振った。まだまだ地方に来ると全体に倹約ムードで、レストランも客がいない所は電気が消えていることが常であった。オーケストラも同様で、短い休憩中でも常に譜面灯のスウィッチを各自几帳面に切っていた。ここでびっくりしたのは、自由主義国家になったとはいえ、オーケストラの団員は皆公務員であり、当然の権利の如く有給休暇を勝手に取るため、2日間の練習の初日はコンマスが休暇をとって休みであった。しかも棒が見れないレヴェルの人で、1日目の練習できちんとテンポ等が揃ってきたにも拘らず、2日目はコンマスだけがそれを知らず、しかも棒も見てくれず、いつもの自分のテンポで勝手に弾いてくれるのでアンサンブルはぐちゃぐちゃ。しかもそんなこと日常茶飯事らしく、皆気にもしない。副指揮者が裏コーラスの指揮をする時も、全くズレズレで、日本ではありえないずさんさに唖然とした。有名なメゾソプラノのアリア「今の歌声は」は私はさんざんやっていたので、結構難しいソリストのアドリブに、最初の練習時からぴったりつけた(日本では当たり前のこと)。しかし普段はでたらめらしく、オケのメンバーやソリストからやんやの喝采を浴びる等、ロシアの国立歌劇場といえども場末になるとヨーロッパはこんなもんか、という妙な経験をした。
●翌1997年5月末、ベラルーシの首都ミンスクの国立歌劇場で《蝶々夫人》を指揮した。日本人の指揮者が日本が舞台の《蝶々夫人》を振るということで、宣伝はかなり行き届いていたようだ。成田空港のお土産売り場にある芸者の綺麗な日本人形をお土産で買っていき蝶々さん役のソプラノ歌手にプレゼントした。また家庭の仏壇でお祈りをする時にチ~ンと鳴らす小さな鐘‘おりん’が2幕冒頭に出てくるのだが、当然ヨーロッパの劇場にそのようなものはなく、分け判らないままでたらめな鐘を鳴らしているのが世界中の劇場の実態である。仏壇の前でお経を上げるのに、お祈りの時になる鐘だからと教会の鐘が某有名歌劇場では鳴ったりもしている。それでこれもお土産として仏壇屋で買って行き、プレゼントした。たいそう喜ばれたのは勿論である。今その劇場では大切に使っているだろう。ここでも国家公務員であるソリストは勤務の関係で、GPが終わって、いざ本番でキャストが代わるなんて何とも思わない。しかし彼らも芸術家魂はある。日本人しか判らないところがたくさんあることは彼らも知っているので、結構多くのソリストたちが(その公演に出ない人も含め)、私に質問に来た。後に(2004年)定期で世界に先駆けて本当の蝶々さんは・・・・云々とやる前で、まだ私としても普通の日本人の指揮者程度にしかこの曲を知らなかったのだが。彼らの純な質問の中には、日本人指揮者として、ハッとさせられるものもあり、この経験が、帰国後日本人としてもっと【蝶々夫人】のことを知らなければならないと私に思わせ、その後世界中に正しい【蝶々夫人】の姿を初めて示し、近い未来に世界中の劇場に向け【蝶々夫人】演奏の大革命をもたらすプロジェクト推進に繋がっていくことになった(このホームページの別の欄で、正しい【蝶々夫人】に関して詳細を述べているので参照されたし)。このプロジェクトの一環として、今日、世界中どの劇場もどの指揮者も知らなかった【蝶々夫人】の本当の姿や、有名評論家も知らなかった、このオペラ全体を通じての極めて重要な音楽上の伏線(別の欄の【蝶々夫人】を参照のこと)を、私が言い出しっぺになって世界中に知らしめていく大役を担うことになったのである。

1997.6

49歳

声帯ポリープ手術で生まれて初めての入院⇒これを機会に拒絶していたITが身近に

のどの調子が悪い時に大きい声を出しすぎ、ベラルーシに行く前から声帯にポリープができていた。そのため事前に予約を取っておき、帰国後すぐに手術、1週間入院した。私は理科系の人間であるにも拘らず、当時新たに興ってきたIT関連(PC等)は全くダメで、その頃すでにメールもかなり普及していたにも拘らず、私は全く蚊帳の外であった。しかしこの入院を機会に重い腰を上げることになった。なぜなら入院の間声を出すことを全面禁止され、そのままでは仕事に大きな支障をきたすことが必至であり、それを救うことができる方法は唯一メールのやり取りだけであったからである。‘窮すれば通ず’である。おかげで、その後現在に至るまで世の中のITの進歩についていけてはいないものの、少しずつは向上しているのである。PCが使えなければ現在ではもはや“生きる屍である”。PCを使えるようになったからこそ、その後定期演奏会のプログラムに私の研究成果を発表することができ、本の出版や、海外にもそれらを通じてそれなりの評価をしてもらえるようになっていった。言い換えればこのポリープは、私にとって‘転んでもただでは起きない’その後の人生を大きくグレイドアップする非常に重要なきっかけを与えてくれたのである。

2000.4.6

52歳

第15回東京ニューシティ管弦楽団定期演奏会

順調に活動の幅を広げてきた東京ニューシティ管弦楽団は、この年から日本オーケストラ連盟に加盟することを目指し、その資格である、“年に5回以上の定期演奏会を3年以上続けている楽団”を満たすために、少々無理してでも、以降年に5回以上を続けることになった。それに伴って、公演場所も原則として東京芸術劇場に移した。事務局にも妻晶子以外に一人専従者を初めて雇った。そのころはまだステージマネージャーもライブラリアンもすべて団員が兼任しており、事務局の運営経費はわずかであった。

20012003

53歳

その後の海外のオーケストラ指揮の一部

その後幾つかの海外のオケを振ったが印象に残っているのは
●2001年3月サンクトペテルブルグ交響楽団(カペラ)で、ショスタコービッチ交響曲5番と武満徹【ノヴェンバーステップス】他を演奏したことである。尺八と琵琶を連れての公演で、初めて聴く日本の音色に喝采。会場はかの有名なエルミタージュ博物館の近くであったため、大博物館も大いに堪能した(このページでYouTube経由により見られます)。 この楽団は、ロシアのオケとしては一定のレヴェルに達しており、かつショスタコ―ビッチの5番の初演の地でもあった。それで、初演を指揮したムラビンスキーでこの曲を聴いたことがあるという老人から、個性に富んだ感想をもらったことが印象深い。ただ、曲中にチェレスタが使われているのだが、その本物の楽器はなく、よく見たらヤマハの電子鍵盤楽器(当時はまだ性能もよくなかった)が置いてあった。当時のロシアに戻りたての時代の、彼らの経済事情が窺い知れたような気がした。
●その年の12月ハンガリー第2の都市ミシュコルツの国立北ハンガリー交響楽団で、ここでもショスタコービッチ交響曲5番、ベートーフェン2番、それにアンコールとしてハンガリー舞曲2番を、私がジプシー音楽らしさを加えて再アレンジした版で演奏した。私としてはジプシー音楽の本拠地であるハンガリーで、ハンガリー舞曲を演奏するということは、まさに挑戦のつもりであった。そこで団員から色々文句を言われ、それを私の将来に対する肥やしにしようと思ったのである。
ところがである。地元ハンガリーの国立交響楽団であるにも拘わらず、通常日本でポピュラーな1番5番6番しか知らない、ジプシー独特の節回しなんて全く知らない感じなのである! びっくりである。それで、私が持っていった、市販の譜面よりずっとジプシー調に私がアレンジした譜面で、そのような感じが出るように練習したら、皆びっくりで、“そうか、これこそジプシー舞曲だ、ありがとう!”と感謝され、拍子抜けであった。そんなものかもしれない。外人が日本に来て日本の曲を凄く上手く演奏する人がいるが、それと同じようなものだったんだろう。 ギャラでもらったのは、最後のドイツマルクであった(その後は€でもらうことになった)。
●翌2002年5月、モスクワから東に半日列車に揺られたヴォルガ河畔の町ウリヤノフスクの国立アカデミー交響楽団を指揮した。列車の中では典型的な悪名高いロシアの警官と一晩寝台のボックスで一緒だった。全く英語も通じず、ただただ一晩脅され続けた。持ち物検査だといってはかばんの中の金目のものを不法持込だとして持って行く。そしてお土産に持っていった高級ブランデーはその場で勝手に封を開け、飲んでしまった。文句を言おうとすると、自分は逮捕できるのだぞ! と言わんばかりの態度で出てくる! ひどい目にあったが、今となれば面白い土産話であった。その楽団には日本から伊福部昭の「交響譚詩」と山本直純氏の奥様正美氏のいかにも日本調の「Spring has come]で、日本調を堪能してもらった。

*2015年6月には、フィンランドNo1の作曲家シベリウスの生誕150年ということで、その記念年を祝って、フィンランド国内の各地でその名前を冠したフェスティヴァルが大々的に開催された。彼の数ある曲の中でも特に、「フィンランディア」という、19世紀末にフィンランドの近隣諸国の侵略に悩まされていたフィンランド国民を鼓舞するために作られ、今では第2のフィンランドの国家とまで言われている有名な曲があり、私もさんざん指揮してきたが、その楽譜には残念ながら無数の誤りがあり、真っ当な指揮者なら誰もがその矛盾点に悩まされてきた曰くつきの曲である。 私が「新世界から」の楽譜を数々修正して新校訂版を出版したきっかけは、本人の自筆譜を手に入れたからであった。フィンランディアの楽譜の矛盾点も、自筆譜さえ見られれば修正できるのではないかと思った私は、その後インターネット等で自筆譜の情報を探し始めた。いろいろあった後、最終的に、フィンランドの中でもシベリウス研究の第一人者と言われている、ヘルシンキ大学のある有名教授に行き着いた。彼は日本からの多くの留学生の指導教官でもあり、フィンランディアに関する資料もすべて把握されており、世界中の研究者たちの要望に応じてその資料を無料(郵送代のみ)で提供するという、国からの役割をも担っておられた。その先生から普通のシベリウス関係者がおそらく持っていないであろう、「フィンランディア」に関する全ての資料を送ってもらった。インターネットとは全く便利なものである。
 残念ながら、自筆譜は作曲家自身が演奏旅行中に紛失してしまい、現存しないが、その初演のパート譜は完全に揃っており(このホームページからその初演パート譜を閲覧(プリントアウトできる)、それをたどって行けば各所の問題点の多くは炙り出されることが判明した。ところが私は、送ってもらったそれらを使っての研究中に、その先生も知らなかったある重要な事実に気付いてしまったのである。それはシベリウスのことならすべてのことが書いてあるという、シベリウスに関する“聖書”とも言われている辞典のような書物の中で、フィンランディアの、版に関する大きな過ちがあるという事実であった。いつその稿が書かれたかを示す記述の中に、どうしても時系列的に矛盾するとしか考えられない内容が書かれており、それでもその辞典を盲目的に信じたすべての研究者は、そこで行き詰まり、あいまいなままになっていた箇所があったのである。それに気付いた私は、その先生に慇懃に、でも率直に尋ねた。はじめのうちは親切に答えてくれていた先生も、私の質問に最終的には応えに窮してしまったのだろう、理由を説明できないままただ回答を拒絶するだけになり、やがて連絡は途絶えてしまった。彼としては、今まで信じてきて、それで地位を築かれたにも拘らず、私の指摘を認めてしまったら、今までの自分の全てを否定し地位も危ういとでも思われたのかもしれない。
私は幸いにも、日本在住で日本語がネイティブなフィンランドの音楽学者に、日本語で書いた私の何万字にも亘る校訂文をフィンランド語に訳してもらい、フィンランド国内で信じられてきた過ち部分をすべて根拠を示して訂正し、英訳、独訳も付けた「フィンランディア」の新校訂版を出版した。そしてその翻訳者を通じそのスコアを何人もかのフィンランドの指揮者にも送ってもらった。現在その彼は、私に色々送ってくださり、最後には私と距離を置かざるを得なくなった先生と、同じヘルシンキ大学の研究室に勤務している。皮肉な偶然である。
 長い前置きになってしまったが、私がシベリウス生誕150年フェスティヴァルに参加することが決まった時、それを知ったその先生が圧力をかけてきたのである。国内で一番権力を持っていたその先生が、内藤を招くなら、そのフェスティヴァルに助成する国の補助を減らすと言ってきたのである。
 色々あって最終的には無事私は指揮できるようになったのだが、私はフィンランドの奏者たちが、それまで信じてきた自分たちの国の第2の国家とまで言われている「フィンランディア」を全く関係ない東洋の一介の指揮者が勝手に替えたと言って、抵抗を示すのではないかという心配をしていたため、フィンランド語に訳された私の校訂文と、総譜を奏者全員に事前に配布し、疑問があったら私に質問してくれるようにとの依頼もその書面の中に書いておいた。
 ところが、楽員は良くも悪くも冷めているというか、何も言わず(抵抗もなく)、普段とは違うフィンランディアを真っ当に演奏してくれたのには、少々拍子抜けした。しかし、思ってもいなかったハプニングが本番で起こった。その楽団には2人の日本人が在籍しており、その一人の日本人ティンパニー奏者が本番で突然私に抵抗したのである。新版の目玉である序奏部分のティンパニーのソロの箇所で、いったん音楽が切れてからもう一度叩き直すようにシベリウスは修正しているところを、その私の説明(校訂文)を読んでいなかったのだろう、本番ではシベリウスの意図を知らないまま、いつまでたっても切らず、従来通り叩き続けたのである。明らかに抵抗したのである。こうなると全ての指揮者はなす術がない。やられっぱなしのまま、その部分は従来の誤った譜面通りにするしかなかった。演奏後、冷静な態度を装ってその訳を聞いてみたら、私がシベリウスの意思を好き勝手に替えてしまったと思ったらしい。そんなフィンランドに対して失礼なことを日本人が勝手にやることなど、同じ日本人として許せないと思い、敢えて本番のみ(本番なら演奏したもの勝ちだから)そのような勝手を許すまじとして抵抗したのだという。私はフィンランドの奏者の中ではそういう人がいるのではないかと思い、至れり尽くせりの準備をしたのだが、思わぬところに隙があったという話であった。
 しかし、この演奏は、日本でいう「音楽の友」に相当するフィンランドで一番の音楽専門雑誌にも大きく取り上げられ、SNSでも話題にはなったらしい(注;その両方の記事はこのサイトでコピーを見ることが出来る)。

2008

雑誌記事

私はいわゆる進学校であり、当時は毎年東大に100人以上入学していた愛知県立旭丘高校の出身である。そのため同期には日本を動かす学術や政財界に進んだ者が数えきれない。この添付の記事は、「文藝春秋」の同級生探訪?というコーナーに載った記事であり、毎月それぞれ有名人が同級生と何人かで載るコーナーであった。還暦前後になると様々な学校で、昔を懐かしんでのクラス会や学年の同期会、はたまたクラブ活動のOB会等が盛んに開かれるようになる。我が旭丘高校も、地元が名古屋故、東京近郊で暮らす卒業生からすれば、そういった会が余計に懐かしくなるものである。そこで毎年のように開かれている関東在住の高校の卒業生の中から、ガス、電力等で一流会社を動かすところまで上り詰めた同期の者たちが、仕事上の情報交換も兼ねて行っていたグループの集まりがきっかけとなり、そこに同じ職種のものだけでは、ということで私にも声がかかり、卒業以来40数年ぶりに母校に集い、校門の前で写真を撮ったものである。皆丁度還暦を迎えたばかりで、超一流会社の副社長が半数を数えていた。トップに立つのはあと2~3年先という面々である。しかし、私の高校1年の時の同級生で当時東京電力の副社長であった木村君は、その3年後に起きた東日本大震災で東京電力が大バッシングを受けた際には、ギリギリのところでその標的になることを免れ、東京電力副社長の地位を生かした別組織の長に移り、難を逃れたようだ。

2015.10

プロ

私はいわゆる進学校であり、当時は毎年東大に100人以上入学していた愛知県立旭丘高校の出身である。そのため同期には日本を動私の最初の大学は名古屋大学理学部化学科であり、21世紀になってからのノーベル賞受賞者を日本で一番多く輩出している大学である。国立大学改革により、十数年前から、国におんぶに抱っこではおられない経営環境に代わり、大学が自ら世間に色々なセールスポイントをアピールし、地域の人達からの応援も得て、自らもお金集めに尽力していかなくてはならなくなった。その一環としてどの国立大学も秋に独自の、学生のためではない、卒業生たちのための大学祭、名付けてホームカミングデイというお祭りを設け、いろいろ価値ある学術面での披露を市民を初め関係各位に対して行っている。そこでは、お祭りのメインの一つとして、毎年名古屋フィルハーモニーの公演が豊田講堂で行われていた。
 どこから情報が名大の幹部に伝わったか知らないが、大学から私にこの年の名フィルの指揮を打診してきた。もちろん断る道理もなく、ほとんど二つ返事でお受けした。メインの曲目は「新世界から」の私の新校訂版を選ばせてもらった。ここでも、名フィル側からの、その校訂版に対しする疑いの目を起こさせないように、私の出版した新校訂版の総譜を団員全員に事前プレゼントしておいた。その後この私の版に関し、あるテレビ局の音楽番組が、特集で私の名まえもテロップで出して何回も取り上げてくれた。
私が聞いたところでは、その前年度の名フィルの公演が何故か大学側には大変不評だったらしく、それと比べて数倍もよかったとの感想をもらった。もちろん本人を目の前にしてのコメント故、何割か差し引いて聞かなくてはならないが、名フィルの反応からもよかったのではないかと思っている。公演の前後には名大の副学長になっていた高校時代の合唱部の後輩や、学生時代お世話になった先輩等々多くの人が楽屋に訪ねてきてくれ、懐かしい時間を過ごした。もちろんそこでもらったギャラは、大学OBとして独立大学法人としての名大に寄付した。私が行った時には既に寄付者として、豊田講堂の柱の一部に名前が撃ち込まれていた。。公演の前には名大同窓会長であられる豊田自動車の豊田章一郎会長(92歳)とも楽しく歓談できた。
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