生い立ち ─ Profile ─
愛知県立旭丘高校入学~名古屋大学卒業の頃までの内藤彰の生き様
1963.4
15歳
愛知県立旭丘高校入学。
家庭内での家族写真
愛知県立旭丘高校入学
S38愛知県立旭丘高校入学。中学で合唱にはまったとはいえ、根っからのスポーツ少年で、運動神経も・・・。それで運動部に入ろうとしたところ、中学3年の時にドクターストップをかけた医者からまたまた・・・。後から(大学入学後)その先生に聞いた話だが、母に頼まれ私にそう言ったとのこと。本当は運動部でも大丈夫だったらしいのだが。母からすれば、何にでもすぐに熱中する私のこと、運動部に熱中して、大学入試に悪影響があったら・・・と、裏で手を廻したらしい。ちなみに旭丘高校は、旧愛知一中であり、質実剛健で運動部が盛んであるという戦前からの伝統はまだ根強く残っていた。また当時東大入学人数は、毎年100人を超え常に全国で上位10校に入っていていわゆる有名進学校。親の気持ちは痛いほど分かるのだが・・・・。やはり親の気持ち子知らず、いや、知ってはいたのですが、解っちゃいるけどやめられないのがクラブ活動・・・。当初は母の仕掛けにはまって運動部は諦めたが(運動部に入っていれば、後に音楽の道に進むなんてことは絶対になかったのだが)、その結果大好きな合唱部にまたまたはまり込み、結果として運動部に入った友達よりはるかに多くの時間をクラブ活動に割くことになってしまった。当時如何にのめり込んでしまったかは、結果として現在音楽で飯を食っていることを考えれば想像つくであろう。母のせっかくの戦略は見事に裏目に出てしまったのである。
1963.4
15歳
-
音楽部(合唱)入部 学生指揮者
学校での活動時間より、毎日家に帰ってから何時間も、“クラブ内を如何にしたら上手く・・・”、“合唱のレヴェルアップのためにはどうしたら云々・・・・”等々、友人の中にはろくにクラブ活動もせず、すでに大学入試の勉強に明け暮れている者も多くいる中で、私は好きな音楽そのものの勉強にも没頭していった。2年生の夏、中日新聞が主催した夏の合唱講習会が岐阜県のひるがの高原で行われ、そこで私の音楽上の方向を決定付ける衝撃的事件を経験することになった。音楽部としてみんなで全日本合唱コンクールの課題曲の指導を受けたのだが、そこで当時ど素人の高校生であった私にとって、天地がひっくり返るような大事件が起きたのである。混声4部合唱の4声部が専門的に言えばポリフォニーでできており、各声部が独立して自由に動き、その結果各声部の縦の線がずれたとしても、大きいところで揃えばよいから各パートが自由に旋律を謳歌するようにという、プロの立場からすれば当たり前の事であるが、混声4部合唱として、4声部のアンサンブルは常に揃っていなければならないと信じて練習してきたことが根本からひっくり返ったのである。以来それを応用しての私の曲作りは大きな成長を遂げることになった。ちなみにその時の講師の指揮者は東京混声合唱団の創立指揮者田中信昭氏であった。以来氏の大ファンになったのは言うまでも無い。一方では中学校のコンクールで賞を取ったときに培った知識をさらに高め、“他の高校を指導している音楽の先生のレベルの何と低いことか!”等々生意気盛りの16歳の鼻息はすこぶる高くもあった(もっとも今でもそれは正しかったと思っているのだが)。
1963.10(16歳)旭丘高校校庭にて。
これはクラブ対抗800mリレーの写真である。中学時代に冬は陸上部に混ざってトレーニングを積んでいた私は、高校入学時の体育の時間の50m走は、6秒3で、これは運動部員と比べてもトップクラスの記録であった。800mの記録は、音楽部でありながらラグビー部も真っ青の1分40秒台であった。
1964.10(17歳)旭丘高校体育館にて。
文化祭で、音楽部の同期生5名によるクウィンテット。私は左から2人目。右から2人目は作曲家の新実徳英氏である
1965.3(17歳)愛知淑徳高校体育館にて。
旭丘高校・淑徳高校・向陽高校・東海高校の4校で合同演奏会を、私が言いだしっぺで企画した。その挨拶をしている私。こういった機会に売った‘顔’が、その後大学に入ってからの合唱団名古屋大学グリーンハーモニーを創立する際の団員集めや、各種行動範囲を広げる時に役立つことになった。
1965.3(17歳)修学旅行の旅館前にて。高校2年の終わりに修学旅行で中国、四国地方を回った。
1965.3(17歳)原爆ドーム前
1965.3(17歳)同じクラス(210組)のクラスメートと共に。私の左側の女子生徒は人気No1の長谷川美代ちゃん。
1966.4
18歳
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名大理学部入学
1966.3(18歳)写真館にて。
名古屋大学入学前
私の読書嫌いは筋金入りで、高校卒業するまでに読んだ本はたった2冊(その後半世紀たった現在もその冊数は変わらない・笑)で、当然のこと国語は大の苦手。それに対し物理は一番好き、なぜなら、B5サイズで見開きたった2頁で収まる公式さえ覚えておけば、入試問題はすべて解ける(はず)。こんなに楽な科目なんて?!、他の理系の科目も物理よりは覚える知識は多く面倒と言えば面倒だが、一旦解き方のコツを覚えればすべて同じ応用が利くという意味で、物理の容易さと傾向は同じ。その私に一番フィットする入試システムであったのは東工大であった。理系は東大と同じレベル、ただ文系の科目の配点が低い。ということで高3の秋以降急遽東工大を目指すことになり、猛勉強を開始、ところが中学、高校と学校では無欠席の皆勤賞であった私が卒業式(3月1日)の前夜、突然の急病で卒業式を欠席、3月3日から始まる国立大学一期校の入試のために卒業式終了後上京するはずだった予定を諦め、次の日に治ったら開通したばかりの新幹線で行くことにした。しかし原因不明の病は治らず(依然として39度越え)、母の“命有っての物種だから”という強い引止めにより上京を諦めることになった。そして翌日、多少熱も下がってきたこともあり、家から車で数分の名古屋大学理学部を受験することになった。実は、これも母の‘仕業’だが、万が一のことを考え(病気のことではなく、もし成績が上がらなければという意味だったのだが)名大の願書も取っておいたらしい。すなわち、たまたま卒業式前夜に急病にならなければ、そのまま東工大を受け、仮に落ちたとしても次の年にはもっと上を狙うとか?、少なくても音楽の道に行くようになることだけは絶対になかっただろう。
1966.4
18歳
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待望の運動部入部
入学式が終わり、各部活の盛んな誘いの中、今度こそは運動部に入ろうとラグビー部の門を叩いた。これでも、中学時代真冬でもランニングシャツ1枚で(袖のないランニングシャツの上にいきなり学生服で3年間通し、けっこう変なことで中学では有名になっていたが、今思えばそのときの学生服は不潔極まりなかっただろう)、毎日放課後運動場や周辺の道を走り回り足を鍛えた名残が残っていたのか、体育の授業時の測定では高校1年の時に50mが6”3、そして大学入学後最初の体育の授業で計った100mでは普通のドタ靴で12”3(これはスパイクを履けば11”7~8にはなるだろう)という記録を持っている。スポーツをやっていない、しかも入試が終わったばかりの一般学生としてはかなりの記録である。それでラグビー部でも新入生の中では脚力はトップであった。大学の部活の多くは毎日ではなく週2~3日であったため、男声合唱団にも入団した。その後、男声合唱団の練習日の関係でラグビー部ではなく、バトミントン部に入団し、夏合宿まで頑張った。
1966.4
18歳
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名大男声
一方男声合唱団は当時150人を越える大所帯であったが、そこは水を得た魚である。大半の団員が大学に入って初めて合唱に触れるわけだが、私は違う!なにしろ高校時代は前述の如く合唱指導の音楽の先生より上であるとマジで思っていたほどである。6月に名古屋の鶴舞公会堂行われた4大学男声合唱団(東北大学、東工大、九州工大)交換演奏会(毎年公演都市は持ち回り)では、高校時代に名古屋の女子高を含め多くの高校の合唱部に顔が効いた関係で、一人で160枚売り、団内でも一躍目立つ存在になった。しかし、当時は70年安保前で学生運動華やかかりし時代であった。沖縄返還運動も凄かった。そのため、全国の大学は皆こぞって政治運動に没頭していた。名大にも機動隊が入ったのはその2年後であり、東大紛争で、東大の入学試験が取りやめになった年もその頃であった。そんなこんなで、大半のサークル活動はそれぞれのサークルの活動目的が政治運動に特化されていった。どの合唱団も歌う曲目は政治運動に関連するものばかり(当時流行った、いわゆる歌声運動)で、当時の自民党の政策を悪政とし、それを世の中に訴えようとしていた訳だ。私も当然その中の一員であった。当時理想に燃えていた学生で自民党を可とするものはほとんどいなかっただろう。おそらく現在の自民党やもっと右よりの団体で活動している人達の中でも、当時は結構多くの人たちが、理想に燃えて同様の活動をしていたと思う。無論その活動を私は否定していたわけではない。しかし、高校までにいわゆる純粋な名曲といわれる、特に政治主義に偏っていない曲を歌い、それらに心酔していた私は、政治的な曲以外の名曲をも歌いたいという強い思いに駆られていった。それで1年の夏合宿(大きな伝統に支えられたサークルの夏合宿で経験した、伝統から滲み出る独特の雰囲気に浸った感激は一生ものであった)を最後に、大学内に新しく、純粋に名合唱曲をレベル高く歌うことを目指して活動する合唱団を作ることにした。これにも中学高校時代の名古屋市界隈の合唱界における私の顔と意地が大きくものをいった。
(19歳)大学入学後ほどなく原付免許を取り、6万円ぐらいで中古の50ccを買い、乗り回していた。後に90ccに昇格、近隣の県に合唱団の団員勧誘で個人訪問をする際も、合宿地視察にも大いに役に立った。
(19歳)名古屋市立商業高校にて。名古屋市立商業(CA)高校の合唱部を大学入学後すぐに、押しかけ指導者になり、毎日のように合唱指導に通った。もちろん無償であるった。
1967.5(19歳)名古屋市近郊の公園にて。
合コン(今ほどではないが当時も時々行われていた。しかし清い!?ものだった、今と比べ(笑)。
1966 秋
19歳
-
当時の国立大学は今と違い女子学生が極端に少なかった故・・・
現在は東大を始めどこの国立大学も、しかも理科系ですら女子学生がうようよいるが、(前述したように)当時の多くの国立大学の女子学生の割合は文科系こそ2~3割いたものの、理科系はほんの2~3%であった。もちろん当時からすでに一定レベルに達した高校の女子学生の進学率はほぼ100%であった。しかし女性の学力は一般的に男性より低く、一定以上の大学には合格できない、ということが当時は常識であった。実際の合格率がそれをはっきりと示していた。なぜなら入学試験を全く男女平等の下で受けた結果の割合なのだから。それが同じ遺伝子を持っているにも拘らず、その子どもの世代か、あるいはもっと時が経った今、なぜか男女の比率は限りなく5割に近づいてきた。一体何が起ってきたのだろう。当初私は、女性でも一定水準の大学に受かるようになった、すなわち少子化の関係で、それだけ入学試験全体のレヴェルが下がってきたと思っていた。それは厳然たる事実であり、私たちの時代と比べ現在の子供は半分どころか、1/3近くに減少してきたにもかかわらず、それなりの大学の定員はさほど減っていない。当然、その定員ぎりぎりの人の偏差値は、ずっと低いレヴェルの学生でも定員を満たすために合格できてしてしまうだろう。だから低い学力の女性でも多く入れるようになり、現状になったと思っていた。しかし、その考えだけではとても考えられないほどの女性の数の多さであり、私の頭の中でこの七不思議は永遠に続くのである。ま、それはそれとして、昔は女子学生が少なく、混声合唱団は名大だけではとても組織できない(すでに男声合唱団と同じ様な政治的な曲ばかりを歌っていた混声合唱団が女声団員の方が人数が少ないというアンバランスのまま存在していた)ため、新規に組織する混声合唱団は、当時の東大に多く存在していた、女性は他の大学からも募集する形態の合唱団にすることにした。
1967.6(19歳)愛知文化講堂にて。
私の音頭取りで、母校千種台中学と当時コンクールでライバルであった汐路中学のOBで高校生大学生中心の合唱団を設立。40名ぐらいで、さすがコンクールで鍛えられた彼らはわずかな練習で見事な合唱を聴かせてくれた。この写真は創立まもなく出演した愛知県合唱連盟主催の県合唱祭。
1967.6(19歳)愛知文化講堂にて。
名大グリーンハーモニーの初ステージ。
愛知県合唱祭である。創立半年で、人数も発足時から新入生を入団させ(スカウトに私はあちこち新1年生の家庭訪問をして口説きまわった)60名近くなった。スカウトの甲斐あり新入生も、多くが合唱経験者で、中には愛知県立芸大の声楽科の人もいた。その関係もあってか最初から大学合唱団としてはトップクラスのレヴェルであった。そのときの歌を聴いたNHKからラジオ番組(当時はまだラジオが盛んであった)の出演依頼があり、NHK名古屋放送管弦楽団の伴奏で佐藤真作曲混声合唱組曲{旅}を歌い、無事大役を果たした。ただその時の指揮者はひどいもので、合唱を全く知らず、私は遠慮がちではあるが父親位の年齢の指揮者にいろいろクレーム(指導?)を付けたことを鮮明に覚えている。単なる仕事として指揮している人って、こんなにいい加減なんだ、間違っても自分はこんな惨めな指揮はしないぞ!って二十歳そこそこのど素人は思ったのである!
1967.7(19歳)愛知県中小企業センターにて。
名大グリーンハーモニーの初演奏会(愛知教育大学混声合唱団とのジョイントコンサート)
私の生き様とでも言おうか、まず先に少々無謀な目標を立ててしまい、それを成就せざるを得ない状況に自分を追い込んでおいてから、それに向けて嬉々として猪突猛進するやり方である。つまり、この合同公演も、まだ新しい合唱団が軌道に乗るかどうかはっきりしない、つまりまだ組織されていない段階で、“ちゃんとした演奏のできる大学合唱団がその時にその会場にいて、素晴らしい演奏をするに決まっている”という仮設を立て、先に会場を押さえ、交歓演奏会をする相手(この場合愛知教育大学合唱団)と交渉して決めてしまい、私の周りの友人も巻き込んで、否が応でもやらざるをえない状態にしてしまうというやり方である。高校時代に組織した4校の合同演奏会も含め、これらは実戦経験として、その後東京合唱協会や東京ニューシティ管弦楽団を組織するための精神的礎となったような気もする。どうやら私には生来、‘石橋を叩いて渡る’側面と、全く逆の側面の行動力が、他の人より数段大きな規模で同居しているらしい。凶に出るか、吉に出るかは???
1967.1
19歳
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合唱団を創立、学生指揮者に・・・
愛知県立美合青年の家にて。名大グリーンハーモニー(混声・女声は大学生ならどの大学でもOK))を1年の1月に立ち上げ、3月には初の合宿練習。当時二十数名であった。
1年の2学期はその準備で忙しいため、バトミントン部も男声合唱団もやめ、新合唱団の組織固めに多くの時間を使った。やはり高校時代に知り合った男性数人にも声をかけ、翌年の1月に練習を開始することにした。当時男声合唱団や混声合唱団をやめたメンバーも数人、それに加え、まだサークル活動をやっていなかったものも加わり、そして女性は名古屋市内の高校でコンクール等で立派な活動をしていた女子高校3年生を4月の先取りをして入団させた。皆経験豊富で、初練習(1月16日)からそれは立派なハーモニーが響いたことを昨日のように覚えている。2年の4月になると高校の音楽部の後輩が何人も入団して来た。中学の合唱部の後輩も含め、新規に入学してきた1年生を含めると創立半年もたっていないにもかかわらず60人近くの大きな組織になった。そのうち7~8割が高校時代の合唱経験者であったこともあり、かなりのレベルで船出ができたのである。次年度の勧誘も、それまでに綿密に東海3県の高校の合唱部を調べ、名大に受かった人、あるいは女性は他大学であっても、当時乗っていた50ccのバイクで勧誘の家庭訪問を数十人こなした(その半分近くが入団した)懐かしい思い出である。まだこのころは、音楽を専門に勉強する時間はわずかで、新しい合唱団の運営をいかにうまくやっていくか、そしてその合唱団のレベルを如何に上げていくかに生活の大半が使われていた。今から考えれば、早くから音楽の道に進んでいた者は、とっくに毎日専門の勉強(訓練)をしていたわけで、どんどんその専門的レベルは離されて行っていたのである。そういう意味では、今考えるとこの時間の浪費は、音楽のプロになる者としてはもったいなかった。
1968.4
20歳
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ベビーブーム(現団塊の世代)1期目
私たちの年度(ベビーブーム1年目)から突然人数が増えた関係で、増えた人数の割よりはずっと少ないが、一応理学部の定員も増えた。しかし化学科は実験設備が必要である。そのようなことは初めから分かっていただろうに、彼らの予想以上に化学科の志願者が多かったらしく、受け入れ可能な人数より6名多い志願者がでてしまった。教養部で単位を満たした学生は学部に上がる権利があるが、それでは学部側は困る。そこで学部が考え出した秘(卑)策!?は、学部進学に必須の、学部の先生による講義の単位を何らかの口実によって、オーバーする人数分与えないという学生からすれば卑劣極まりない手段であった。ある友は授業中しゃべっていて名前をチェックされた。ある友は半年間の授業で2回講義を休んだ。そして私は朝の講義を半年で4回、数分の遅刻をした。という通常なら何も問題にならない事件!がその口実に使われた。“やる気のないものは学部には要らない”が教授側の言い分である。皆で抗議をすると、“それなら君らの試験の成績を下げることにする。採点の半分は、教授側の主観で付けられるのだから、それなら問題ないだろう”であった。その結果、他の単位はすべて取れているので、それからの1年は何もすることがなく、ただただ合唱団三昧に明け暮れることになった。こんな目に合わなかったなら、当たり前の化学者の道に進んでいたであろう。まだこの時点ではまさか音楽の道に行くなどとは夢にも考えてなかったから。しかも、今考えるに、私は21世紀になって日本の大学で一番多くのノーベル賞受賞者を輩出することになる学部に進んだのである。もったいなかった(笑)?!
1968.4.7(20歳)写真館にて。
兄の就職、弟の高校入学を記念した家族写真。
1968.4.7(20歳)愛知県立某高校校門前にて。
父(宗一)が初めて校長として勤務した高校の校門前にて家族写真
1969.8(20歳)蛭が野高原(岐阜県北西部)にて。
愛知県大学合唱連盟恒例の夏の合同講習会件親睦会。私は1年当時在籍していた名大男声合唱団として、参加していた。
(写真前列中央が私)
1969.1(21歳)中電ホールにて。
名大グリーンハーモニー第2回定期演奏会
1971.3(23歳)名大豊田講堂北側
私の本来の在籍は理学部化学科であった。そのクラス写真。通常なら教官も一緒に写真に入るのが慣習だったが、当時70年安保反対運動華やかかりし頃で、東大入試も中止され、大学内にはインターナショナルの歌(反戦歌の代表的なもの)が鳴り響き、全学封鎖や、それに対抗し機動隊が学内にも動員されたり、学長や学部長が学生に軟禁され糾弾されるという異常事態(現在は、またすべての秘密が完全に隠蔽され表向きは平静を装た状態に後戻りしているが)のような、あと一歩で大学の化けの皮がはがされるところまで進化?しかかった時だった。化学科内も例に漏れず改革運動が一部には叫ばれていたタイミングであったため、学生側が言い出したのか、教官側が拒否をしたのか今となっては定かではないが、本来ならば卒業写真的な意味合いを持つ写真に教官の姿はなかった。元理研の理事長として話題の中心者の一人であるノーヴェル賞受賞者の野依当時の助教授も当然の事、一切そういった問題には目を向けていなかった。
1970.7
22歳
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山田一雄先生との出会い!(厳しい化学科の授業の隙を見て)
そして1年遅れで進んだ化学科の3年生。朝の講義から、夜は実験の進み具合により深夜まで、まるで缶詰であった。普通の学生なら他の事は何も出来ない。その中で学生指揮者として、恐ろしい教授たちの目を盗んで合唱団活動に参加することは筆舌に尽くし難いものだった。翌年4年生の夏休みに、私の進路を決定付ける大事件が起った。当時の芸大指揮科教授でNHK交響楽団指揮者等戦前戦後の日本のオーケストラ界を牽引してきた先生との出会いである。全日本合唱連盟の全国規模の講習会が松山の道後温泉で行われ、その指揮法講師に山田先生がいらっしゃったのである。その指揮法の講座で、ずうずうしくも何度も手を挙げて講習曲の指揮のモデルになり、参加生の前で直接の指導を受けることができた。しかも、その夜ホテルのバーで先生と偶然出会ったとき、グラスの下に敷くコースターに“才分の内藤彰さんへ”と書いてもらえたのである。すなわち“大変才能有る内藤さんへ”という意味である。もちろん相手がアマチュアの合唱指揮者だからであり、“プロということになれば全く別物”と言われるのが落ち・・・・かもしれない!それから1ヵ月後に先生が名古屋のNHKで指揮をされることになられたとき、私はずうずうしくも宿泊先のホテルに先生を訪ねたのである。そこで恐々講習会のときの感想をもう一度聞いてみた。そうしたら“いや~、なかなか良かったよ”と、しらふでもおっしゃってくださった。その結果月に1度、名古屋から横浜の先生宅にレッスンに通うことになったのである。
1970.8(22歳)佐渡ヶ島にて。
尊敬する東京混声合唱団創立指揮者田中信昭先生の講習会が、全国から合唱愛好者を集めて佐渡ヶ島で開かれた。私は飛んで行って、多くを吸収させていただいた。当時の私のまだまだアマチュアのレヴェルの参加者として、本当に良い講習会であった。
(前列右から3人目が私)
1970秋~
23歳~
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音楽の道に進む大決心!!
翌年山田先生が中田喜直氏の合唱の新曲を録音するために名古屋のNHKに来られたときのこと。練習後レストランの個室で先生と中田喜直氏、ピアノの三浦洋一氏、それに現在作曲家として一線で活躍する新実徳英氏と私の5人で食事をすることになった。まず最初に中田氏が新実氏を山田先生に紹介し、“東大を卒業して、今年芸大の作曲家に入った・・・・”。偶然だが、私と新実は小学校のときから才能教育の同門で、お互いへたくそなヴァイオリンをキコキコやった仲間(1956?年9歳の欄に子供の新実氏が写っている)。しかも高校の音楽部で一緒で、彼も指揮をやったりしていた。そして3年は全くの同級生であった。彼が東大を(いい加減に?)卒業し・彼曰く、工学部機械科の4年のときは、1年に4回授業に出ただけで卒業させてもらったとか。私の化学科と偉い違い! それも羨ましかった! それはそれとして、そのときは夢の芸大生!羨ましいなんていう程度ではなかった。大いに刺激を受けた。 新実氏の紹介が終わると山田先生の番。私を中田氏に紹介する途中で先生は“ところで君は大学を卒業したらどうするつもりなんだ?と聞かれた。私は芸大にそんなに簡単に入れるわけも無いし、ともぞもぞしていたら、“芸大に来たいなら大丈夫、入いれるよ”と軽くおっしゃった。“エッ”と耳を疑ったが、先生曰くピアノの試験で落とされると自分(山田先生)ではどうしようもないが、学科試験は問題ないだろうから、後はすべて問題ないんだけどね”であった。そのとき指揮のレッスンを受け初めてまだ数回。他の専攻では絶対にありえないことである。しかし当時まだピアノの練習を始めたばかり、結局無理だろうとそのときは思った。しかし芸大に行かなくても指揮界には朝比奈隆先生初め、山岡重信(早稲田大学)、荒谷俊治(九州大学)先生他何人も音大を出ないでプロの指揮者として成功している人たちがいらっしゃるのだから・・・。その場はそれで終わったが、どういう形にしろ自分はやはり指揮の道に進みたい、進むのだと初めて自分に真面目に言い聞かせた。
1971
24歳目前
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近隣の大学の音楽の授業やレッスン室に忍び込み・・・・
そのころ、どういう形になるにしても、“将来的に音楽に携わっていくためには、ピアノは必須である”というわけで、ピアノが家にない私は、大学のサークル室にあるピアノを弾くため、大学のキャンパスの中でも山の上(運動競技施設の多くがある)にあるサークル室に通い始めていた。鍵盤の絵を書いた紙の上で手を動かす練習をしたり、他の大学の音楽練習室にも勝手に入り込み練習したことも何度も。実は3年の実験の授業で、出席時間数の計算の仕方に見解の相違があり、その1科目のみ実験の単位を認められなく(出席不足)、再度その1種目の実験のみのために1年を使うことになっていたのである。これは公式的には卒業が遅れるのだから不幸なことなのだが、進路を迷いに迷っていた私にとっては不幸中の幸いで、ここで突然できた十分なる時間を使ってピアノはもちろん和声学他多くの音楽の専門の勉強を始めた。愛知教育大学音楽科には随分お世話になった(家から20Km以上離れた場所にあり、私は90ccのバイクで通い詰めた)。なぜなら和声学他の授業を受けさせてもらい、授業中に添削してもらったり定期試験までも受けさせてもらった。もちろん単位がもらえるわけではない。合唱活動の関係で結構多くの音大の教授たちを知っていたのでできた、堂々たる盗聴講(盗み聞き)である。でも先生は喜んでおられた。何しろ単位を取らなくてはならないからという受身の学生が多い中、自分の授業を受けたいとはるか遠いところからそれを目指してくるのだから。
1971.4
23~24歳
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名古屋大学理学部化学科でのエピソード
そして名大の最終学年で物理化学専攻の私は、教授や助教授、助手他の数名の学生と一緒に専門書の輪講(英語で書かれた専門書を、生徒を含む皆が順番に訳し、内容を参加者に講義していく)に苦しんだり、卒業実験と称し、教授から与えられた実験課題を(訳分からず?)黙々とこなしていく生活が続いた(表向きではあるが)。あるときは何の溶液だったか忘れたが、ある有機溶媒を蒸留(有機溶媒とは、例えばアルコールだとかその他その有機物から成る液体に何かを溶かしてそれを実験に利用するための液体だが、他の溶媒や水分等が混ざり込んでいることが多いので、それを蒸留してその沸点の違いによってほぼ100%の溶液に分別する精製作業)しているときに、火災が起ってしまった。勿論消防車が来るほどの規模ではなく、その近辺にいた者達が消火器で消し止めたのだが、当然私が悪者扱いされてしまった。しかし今でも私は冤罪だ! と心の中で叫んでいる。なぜならその溶媒は研究室の皆が毎日のように使っているもので、マニュアルどおり簡単な作業をして蒸留が終わるのを待っている、ただそれだけのいつものルーティーンの作業だったのだ。もう何ヶ月も同じセット(ガラス管やゴム管、フラスコやその他諸々で結合されたセット)を使っていたわけで、どこかに欠陥が生じていたのだろう。たまたま私がその婆(ばば)を引いただけに過ぎず、私の順番でなければ誰か次に使った人がその婆を引くことになっていたはずである。苦難の化学科生活の中でのちょっとしたエピソードである。このエピソードは、数年前に理学部の卒業生用の機関紙(立派な装丁の)のコラムを頼まれた時、面白おかしく載せたり(ちなみに私の前のページは卒業生でノーヴェル賞受賞者の下村先生のコラムであった。劣等生のはずだった私に、大そうな頁を任せてくれたものだと感激)、2015年の10月に、名大のOBのための大学祭のような“ホームカミングデイ”で名フィルを振ったとき、松尾学長や、全学同窓会長でいらっしゃる豊田自動車の豊田彰二郎会長との雑談でも話題にした。今では懐かしいエピソードである。関係ないが、ちなみに私が使っていた実験室の2部屋先には話題の理研の元理事長で、十数年程前にノーベル賞を受賞された野依先生の、新設された反応有機化学の研究室があった。この研究室もかなり厳しかったらしい。
1971-72
23~24歳
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名古屋大学交響楽団学生指揮者と山田一雄先生
そんなこんなをやりつつも、指揮で身を立てるにはオーケストラを知らなければならない(合唱に関してはすでにかなりの知識、経験を持っていたが)、ということで、身近なところで、名大交響楽団に入団することになった。2回目の暇な年(1年で一単位の実験さえ取ればよいので)の4月である。1年生と一緒に紹介されたが、ヴァイオリンをやっていた関係で、初日からビオラパートに加わり《運命》の練習に参加した。生まれて初めてオーケストラのパート譜を初見で見ながら一応は指揮も見る振りをしたことを覚えている。それからの1年はアマチュア楽団とはいえ、良い経験になった。私が合唱団で指揮者をやっていることは楽団幹部にも知られており、しかも山田一雄先生についているということで、夏には学生指揮者の一人として指揮台に立つようになった。一方山田先生のレッスンは順調で、芸大の指揮科ならすぐにも受かるといわれてから半年後、進路の相談をしている時に“ピアノがダメならば来年から大学院(当時は修士まで)終了後にさらに上の研究生(現在の博士課程)が出来ることになっており、その試験は実技だけでピアノは要らないからそこを受けたらどうか、たぶん上手くいくと思うよ”と言われまたまた驚いた。早速調べてみたが、これは大学院の修士を出た人、が受験資格であることが分かり、ボツとなってしまった。しかし先生にそこまで言っていただけたことは、大いに励みになり、単に別の仕事をやりながらプロ顔負けで指揮活動をやっている多くの人たちとは一線を画し、本当に“プロとしてそれ専業の、プロ相手の指揮者としての道を歩いていこう”! と決意を固めたのであった。
1972.1(24歳)市邨短大の合唱団を客演指揮した。当時色々な団体に指揮者(指導者)として携わっていた中の一つ
1972.5(24歳)愛知文化講堂にて。チェロの奥がビオラでその2列目の男性が私である。
1972.5(24歳)愛知文化講堂にて。
名大交響楽団入団後1か月でビオラ奏者として公演に加わる。生まれて初めてのビオラだが、ヴァイオリンをやっていたから、最初からそこそこは弾けた。写真はないが、私も定期公演や、巡回公演で指揮している。
1972.5(24歳)彰個人写真。澄ましているところを見ると、何かフォーマルな必要性が有った?
1973.1(25歳)名大グリーンハーモニーの第7回定期に客演し、伴奏に当時指揮していた名大交響楽団が加わった
1973(25歳)当時の愛知県で名古屋市立北高校についでコンクールで良い成績を取っていた名古屋短大付属高校(現桜花高校)の指導を任された。この写真はその定期演奏会
1973(25歳)名短付属高校にて。
卒業アルバム用の合唱部集合写真
1973(25歳)金城学院高校にて。
同じ頃名門金城学院高校の管弦楽部も任されていた。その練習風景
1973(25歳)
その第7回定期演奏会
1973(25歳)定期演奏会終了時における集合写真
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