生い立ち ─ Profile

名古屋大学卒業後上京(1974・4)までの準備期間

1972.4

24歳

●名古屋大学理学部化学科卒業
●名古屋短期大学付属高校(現桜花高校)合唱部指揮者
●同高校化学の非常勤講師

大学を卒業した私は、とりあえず家にアップライトピアノの中古を買い、ピアノ練習(初歩から)とその他音楽一般の勉強をやりつつ、4月からはその頃高校の合唱部として名を馳せていた名古屋短期大学付属高校(現桜花高校で、今もバスケット部は全国制覇をしている名門である。合唱部も最近久しぶりにコンクールの全国大会に名前が載ったりもしている)の顧問の大谷先生から、校務で多忙になったため、自分の代わりに指導をして欲しいと頼まれ、週3日ぐらいのペースで指導に行くことになった。その矢先、同じ先生(学校法人の経営側の先生でもあった)から化学の講師に欠員が出たので非常勤で教えてくれないかとの依頼が来た。大学の化学科では音楽の方にばかり頭が向いていたが、高校の教科としての化学には絶対の自信があった。高校時代父(高校の化学と物理の教師をやっており、自ら受験用の参考書を作り、全国の高校から注文が来ていたのを覚えている)にもみっちりと仕込まれたこともあり、高校の時化学の試験では東大へ行った連中よりはるかに良い成績を取っていた。それで合唱指導と化学の非常勤講師の掛け持ちで通うことになった。

1973.4

25歳

芸大受験に向けての各種出来事

一方芸大に向けてのピアノの練習はなかなか進まなかったが、いちおう直接大学院を受けるつもりでその課題曲に力を注いだ。通常なら指揮科を出た人が受けるピアノの試験を初心者である私が受けて受かるわけないのだが、たまたま課題曲がミクロコスモスの第6巻の中の曲で、音楽的には難しいのだが、いわゆる訓練された指でぱらぱら弾くようなところはなく、ガチャガッチャガッチャ・・・というふうに弾いていれば、ひょっとしたらごまかせるかもしれない、何て甘いことも考えたりしたのである。そうでも思わないと何も進まないので。秋には早々と語学の試験は免除との通知が来た。名大を出ていれば芸大を出た人よりそちらの方は大丈夫だろうと、当時担当だった音楽学の教授に言われた。しかし、このとき私には凄く衝撃的なことが起った。山田一雄先生がまだ定年には数年おありであるにも拘らず、レヴェルの低いことばかりやらされている(芸大の学生オーケストラを指導する等)のはもういやだ、とおっしゃりあっさりと辞めてしまわれたのである。今となれば分かる気もするが、当時からすると憧れの芸大のオーケストラの指導など飽き飽きだという言葉がにわかには信じられなかった。しかし、結果として、しばらくの間は、先生のいらっしゃらない芸大に入ったって!!という焦燥感に苛まれていた。

1973

25歳

民音指揮コンクール

それからしばらくして民音主催の指揮コンクールがあった。音楽大学の学歴もピアノの腕前とも関係のないそのコンクールを是非受けてみろとの山田先生のお言葉をいただき、無謀にも受けることを決意した。1次審査はオーケストラを指揮する代わりにピアノ2台を指揮する形態で、課題曲はベートーヴェンのエグモント序曲であった。山田先生からはレッスン中に“いいよ、いいよ”と結構誉められ(それが先生のレッスンの流儀であったのかも?)てはいたが、正直言って、一般大学を出ただけの者が指揮科で腕を磨いてきた人たちや、すでにプロオーケストラを振っている人たちを相手に上手くいくわけがない、落ちて元々という軽い気持ちであった。本番は自分なりにはまあまあできたつもりではあったが、予想通り1次の合格者の中に私の番号は無かった。家に帰ってから先生に電話したところ、先生は開口一番“やあ~おめでとう!君(出来が)良かったよ!”という言葉が返ってきた。“エッ、あの、私ダメだったんですけど”“そんなはずないよ、通っていたよ”“エ~”そんな会話が続いた。先生は何を勘違いされたのかな~、と思いつつ、またこれからもよろしくお願いします、で電話を終えた。翌日、審査委員長でいらっしゃった斉藤秀雄先生に、ずうずうしくも何の面識も無いにも拘らず電話をかけ、“昨日○番に受けて落ちた者ですが、もし少しでも覚えていらっしゃいましたら一言御教示願えないでしょうか”と恐る恐る聞いてみた。その時の先生のお言葉は今でも決して忘れることはできないものだった。“君はとても音楽的で良かったよ。2次で頑張ってくれよ”とおっしゃったのである。昨日山田先生に‘受かっていたはずだよ’と言われたときは、何かの間違いだと思ったが、二人の重要な審査員に同じことを言われたならばこれはひょっとして審査事務局の手落ちか・・・・、とも思ったが、‘時すでに遅し’であった。

1973

26歳

桐朋か芸大か?

2~3日後に、またもずうずうしく斎藤先生に電話をして、自分の進路について悩み相談みたいなことをしてみた。そうしたら、“山田君もいいけど、桐朋に来ないか、自分はコンクールを受けた中で君は3本の指に入ると思った。その3人は残念ながらみな桐朋の生徒ではないんだ。桐朋には普通の大学以外に色々なコースがあるから、来るならどのコースでも君の好きなものを選べばいい”とまで言ってくださったのである。この言葉には単純に大感激であった!山田先生のお言葉といい、斉藤先生のお言葉といい、私にとって考えもつかなかった嬉しいものばかりであり、当時の私を有頂天にさせるには十分すぎるほどのシテュエーションであった。敢て断っておくが、今になって自分の自慢話を書こうとしているのではない。なぜなら、初めから音楽の道で来た人たちと比べ致命的に出遅れている私にとって、こういった支えとなる言葉がなかったならば決してこういった道には足を踏み入れられなかったであろうからである。“石橋を叩いて渡るか渡らないか”と迷っていた私に最後の決断をさせてくださった重要なお言葉として、ひんしゅくを買うかもしれないが書かざるをえないのである。指揮の桐朋といわれ、小澤征爾氏をはじめそうそうたる指揮者を輩出した桐朋のドンの大先生が、桐朋の斉藤指揮方式とは180度正反対の山田指揮法で振った私に対し、自分が教えてコンクールを受けた生徒たちの誰よりも良かった、と他の部外者2人と共に大いに買ってくださったと言うことは、如何に度量の広い先生であられるか!。山田先生がお辞めになったため芸大を目指す気が失せているときに、片方の雄である大先生にここまで言われるなんて、とある意味‘運の強さ’にも大感謝であった。

1973.9

26歳

桐朋学園選択

そして‘まずは指揮のレッスン風景を是非見に来い’との誘いに乗って何度か見学に東京まで通い始めた。勿論その時は山田先生には内緒であった。先生は斉藤指揮法に関して“音楽的ではない”と評価をされていなかったからである(当時も今もその山田先生のお気持ちは良く分かるのですが)。生まれて初めての音楽大学における本格的な指揮のレッスン(大勢他の生徒さんが見ている中での)には大感激であった。そして斉藤先生が提示された、大学に入りなおすかディプロマコースという専門授業だけを中心に受けるヨーロッパ型のコースを選ぶか、あるいは他の大学では大学院に相当する研究生(今もそうだが、校舎を桐朋女子高校の敷地に間借りしている状況では、敷地の基準が文部省の規定に達せず大学院を設置できないそうで、後に富山県に大学院が出来たが、当時文部省の基準とは別に、桐朋を卒業した人または同レヴェル以上の人のために桐朋学園大学が独自に設置した2年間のコースであった)にするかの選択であった。その中で圧倒的に授業料の安いコースが研究生であり、大学1年次だけでも当時200万円を越えるといわれているときに、研究生は1年でたったの16万円で、それ以外一切かからないという。それはそのはず、すでに全ての授業の単位を取った人が進むコースであり、専門のレッスンのみを対象としていたからである。私は迷わずそれを選んだ。

1973 秋~

26歳

桐朋学園受験まで

さて受けると決めた以上は入試の準備をしなければならない。私は斎藤先生に試験科目や試験曲等を伺った。少々お考えになられてから、‘学科試験は和声学で、作曲科の入試問題をやってもらうことになるだろう。合格レベルは何も作曲科のレベルにまで行っていなくてもいいが’、ということであった。そして肝心の指揮の実技試験曲を聞いたのだが、教えてもらえない。とにかく入試の手続きをして、決まった試験日に来なさいとおっしゃるだけであった。不安ではあったが、まず和声の試験のための本格的な勉強を始めた。また桐朋に行くからには斎藤指揮法をゼロから学ばなくてはならないということで(他の楽器専攻や普通の指揮法ではありえないのだが、斉藤指揮法だけは特別で、すでにどんなに一流の指揮者になっていたとしても、この指揮法を会得しようと思ったら、まずはその指揮法の初心者となってゼロからそのメソードのイロハを順に追って叩き込まなければならないのである)、お弟子さんの家に通い、山田先生とは根本から全く違う齋藤指揮法をゼロから学び始めた。半年後の入試前日、何日も前に友人の新実徳英氏の部屋に泊めてもらうことをお願いした(つもりであった)。しかし夜何時になっても東中野のマンションに帰ってこない。12時過ぎたとき諦めてどこかホテルに泊まることにした(後から知ったことだが、どうやら日にちが間違って伝わっていたようだ)。しかし予約もしていないし、どこに泊まってよいか分からず、新宿近くのいわゆるラブホテルらしきところに泊まった。なぜならそこなら予約無しでいつでもOKであったからだ。一人で泊まっても二人分払えば文句なかろうという訳で泊まったところまではよかったのだが・・・。入試の時間を逆算して7時半に起こしてくれるようにホテルに頼んでおいたにも拘らずモーニングコールはなく、目覚めたときには10時を廻っていた。試験がちょうど始まる時間であった。

1974.2

26歳

奇異な、今ならありえなかった桐朋学園大学研究科の入学試験システム!?

目の前が真っ暗になったがとにかく学校に行き、お昼前に4階の先生のお部屋を訪ねた。平身低頭で謝ったが、先生は何のことだ?っといった感じできょとんとしていらした。事情を話したら、“あ~そうか、いいよ合格にしておくからこれから頑張ってくれよ”の一言であった。どうやら合格は初めから決まっていたみたいで、もし時間どおり大学に着いたとしても、私が受けるはずの和声学の試験もなく(作曲科の試験は別日であったことを後から知った)、指揮の実技試験のための準備もされていなかったのである。唖然としたが、とにかく憧れの指揮科に入れたのだから万歳!であった。これも後から知ったのだが、実は外部から大学院相当のこのコースに入学できるようになったのはその年からか前年からであり、具体的に受験者としては私が初めてであったそうである。それでまだ試験要綱など完備しておらず、斎藤先生は私の質問に対し、その場で思い付きを言われただけであったようだ。今では考えられないズサンさであったが、だからこそ私は救われ、入学できたのである。ちなみにこのコースの同期生で入学手続きで一緒だった仲間には声楽家が多く、後に日本の声楽界を牽引する大島郁雄氏や豊田喜代美氏らがいた。

1974.4
1980.3

26歳半~

桐朋学園での生活①

安い部屋を大学から徒歩2~3分のところに借り、学生生活が始まった。夜11時まで大学の部屋が使えるため、ピアノをさらったり副科のホルンをさらったり、好きなものを勉強するって、まるで一日中趣味に興じているようなもので何と幸せであったことか!。教授の目を盗んで・・・・の時と違って、“学生やってる!”っていう充実感に満ち満ちた日々であった。なにしろ桐朋を卒業した人と同じコースに入学したにも拘らず、実際は音大を出ているわけではないので足りないことが一杯!単位には関係ないが、可能な限りの授業に出席し、多くの科目で個人レッスン(添削?)を先生方の好意で受けさせてもらった。生活費を稼ぐために近くの学習塾で講師をしたり、家庭教師をしていた。中には東大を受けるという高校3年生を、暮れになってから引き受けたこともあった。私が高校で化学の先生をやっていたからということで、化学を教えることになったのだが、一般的に見ると、音大生に東大入試のための家庭教師を頼む方もどういう神経しているのか・・・・。大学の授業では、名古屋の高校で講師をしていたときの教え子と中学のとき同級生であった子とか、学習塾(中学生向け)で教えた子と一緒だったりしたことも。

1974.4
1980.3

26歳半~

桐朋学園での生活②

しかし判っていたとはいえ、指揮のレッスンには結構参った。桐朋には、あわよくば指揮者になりたいと思って、入りやすい他の専攻で入学してくる者も多く、また副科で指揮を専攻している人たちの中でも、才能のある生徒がいたら・・・!というお考えを斎藤先生がお持ちであったことから、指揮科の専攻も副科の人達も対等に同じ時間のレッスンを受けるという、他では考えられないシステムであった。大学院と同等の科に入ったといえども、斎藤先生の指揮法の初心者である私は、その指揮法を速くマスターするために、ピアノ科であっても副科で斎藤指揮法を何年もやっているという人たちからも教えを請うたりしたのである。“恥も外聞もなく”とはその時の私のためにある言葉であった。教えてくれた人たちからは、私は全くの指揮初心者だと思われていたのだろう。そうしたシステムに堪えられなくなった某大学の作曲科助教授(コンクールのとき斎藤先生が良いと思った3人の内のひとり)は、きっと馬鹿にするな!っていう気持ちだったのであろう、早々と桐朋をやめてしまった。その気持ちはよ~く判る。見方によっては大学院生が、明らかに自分よりもレヴェルの低い、他の専攻なら小学生ぐらいのレヴェルの人達にレッスンを受けなければ先に進めない、と宣告されたようなものだからである。しかし、コースとしては大学院と同じところに入学したとはいえ、私の場合は幸か不幸かやめた作曲科の先生とは違い音大を出ていなかったがため、色々不足していることを十分すぎるほど自覚しており、こういう一般常識からすれば奇異な状況をもさほど気にすることなく、割り切って学んでいく事が出来のである。今では、破格の低学費で学ばせてくれた桐朋学園と、入学当初私を指導してくれた副科で指揮を専攻していた人たちや、指揮のレッスンにオーケストラ代わりとして付き合ってくれた多くのピアノ科の学生さん達に大変感謝している。

1976.4

28歳半~

同上修了後も4年間在籍研修を積む

研究科の研究生は2年で修了であったが、それだけでは足りないと思った私はさらに籍を置かせてもらった(年にたった10万円ぐらいの授業料?で)。小澤征爾先生や秋山和慶先生には集中レッスンで何度もお世話になり、4年間指導教官?として尾高忠明先生(とても誠実な先生で色々教えてもらいました。大感謝です。)に、また堤俊作先生の自由奔放な取り組み方にはそれなりの刺激を受け、外であまり指揮はやっていらっしゃらなかったが、岡部守弘先生からは楽譜の読み方を徹底的に指導され、それぞれに大変意義深いものであった。一方幼少から桐朋で育ってきた人たちとは根っから違う外者であり、一部の学生は私を異端児扱いし、今で言う‘いじめ’っぽく接してくる者も何人もいた。彼らからすればそれも当然だったのだろう。なにしろ生粋の桐朋育ちの学生からすれば、私はまるで宇宙の彼方から進入してきた異星人だったのだろう。それはお互い様なのだが(笑)。とにもかくにも桐朋に来て良かったと心から感謝している。

1978.5

30歳~

東京シティーフィルで指揮デビュー。
その他多くの名のないオーケストラから名のある楽団まで経験して・・・

まだ聴講生みたいな形で桐朋に籍を置いていたとき(桐朋に来て4年ぐらい経ったとき)、初めてプロのオーケストラを振った。そのオーケストラは、堤先生から言われ、先生が創立されてまだ間もない東京シティフィル(虎ノ門ホール)であった。この頃は、ちょうど第2次ベビーブームの子どもが学校に入りだした頃で、生徒数が多く、かつ高度成長期でもあったためか、小学校も中学校も各学校単位での鑑賞教室が盛んになり始めていた。とはいえフル編成のオーケストラを雇うのは経済的に無理ということで、小編成のオーケストラが1日に2校3校と学校を廻るという形態の公演が全国各地で盛んになっていた。メジャーオケは相手にしていなかったため、安く公演が出来る小編成の臨時編成オーケストラが花盛りであった。私はシティフィルを振る前から多くのそういった楽団で経験を積むことができた。現在の若い指揮者はそういった場がほとんどなくなりかわいそうである。しかし、朝8時半から午後3時ごろまでの間に学校を移動して4公演も行おうとすると、一度も練習することなく本番をこなさなければならない。曲目も分からないまま譜面台に載っている曲を、あるいは司会者が言う曲目を黙々と演奏していくのである。リピートをするかどうかも打ち合わせができてない場合など、リピート記号が近づいてくると皆不安げな気持ちになり、演奏中に繰り返すかどうかを皆に如何に伝え、滞り無く無事最後まで通せるかどうかも良い?指揮者かどうかを評価する重要な要素となっていた。東京シティフィルを初めて振って以降、ニューシティ管弦楽団が定期公演を始め、本格的活動を始めるまでに東京交響楽団、新星日本交響楽団、新日本フィルハーモニー、東京フィルハーモニー、神奈川フィルハーモニー、名古屋フィルハーモニー、九州交響楽団他を各数公演~10数公演指揮してきた。一方オペラは、二期会本公演や東京室内歌劇場他多くの副指揮を務め、演奏会形式での本番を何度か経験した。
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