生い立ち ─ Profile ─
内藤彰誕生。幼少から旭丘高校・名大理学部・桐朋学園を経て東京合唱協会・東京ニューシティ管弦楽団創立育成と、名曲演奏上の伝統や楽譜の誤りの指摘と世界に向けた修正・啓蒙活動に至るまで
1947.9.29
0歳
誕生
名古屋市千種区新池町2-9の自宅にて内藤宗一、雅子の3男として生まれる。
1948.3.26
6ヶ月
彰中央・可愛い!
写真館にて
母雅子・父宗一・父方祖母てい・兄郁雄
1949.4
1歳7ヶ月
前列の2人は左が兄、
右が従兄で私は映っていない
名古屋市千種区新池町2-9の生家(借家)前
前2人は兄と従兄の広道、生家の正面が映っているが、大変なぼろ家で、幼心にも友人に恥ずかしかった。しかし庭の中には木々がうっそうと生い茂り、べンチや井戸もあり、子供には格好の遊び場であった。ちなみに敷地は300坪(1000㎡)もあり、建坪も平屋で50坪(166㎡)、戦中に爆撃を受け家の半分は吹っ飛んでしまっているにも拘らず、その残り部分だけでもそれだけの大きさがあった。明治が舞台のドラマに出てくる家そのもので、台所はだだっ広くて、かまどからは10mもある大きな煙突が2本、屋根を突き抜けていた。崩れかけたような屋根からの雨漏りは日常茶飯事であったが、よく言えばすずめの巣等、多くの生物!?!が屋根の隙間や大空間の天井裏、それに縁の下(子供なら自由に出入りできる幅があった)に生息すると言う、理科の授業にはもってこいの代物であった。
1951.5頃
3歳8ヶ月
才能教育研究会名古屋支部にてヴァイオリンを習い始める
今なら、おそらくピアノを習わせられるところだが、戦後間も無い当時の教育ママは、ピアノの代わりに安価で手に入るヴァイオリンに奔ったのである。先生は最初余語仁三郎先生、次にご子息の吉田好美先生。当初は御多分にもれず、母に引っ張られて嫌々・・・・。練習嫌いな私に対し母は、あるときは私の好物のマコロンで釣り、ある時はご飯を食べさせないわよ!、と脅しをかけたり・・・。また、父が帰宅したときに練習していると“うるさい!”と怒鳴られ。どこの家にも共通の風景だが、今から考えればもっとちゃんとやっておけばな~!ッテ。でも、いい加減ではあってもやっていたからこそ、回り道してでも音楽の道に来れたのであり、曲がりなりにも何とか男の人生の選択として、失敗者にはならずに済めそうなところまで来れたのである。もっとも私にヴァイオリンを強いた母が、“ゆくゆく私が立派な科学者にでもなる”ことを夢見ていただろうことは子供心にもいやというほど分かっていたし、私も幼少より今風の言い方なら‘理系女’ならぬ‘理系ガキ’であり、必ずや母の思い同様科学者になり、世界の先頭に立って・・・と信じて疑わなかったのである。母からすれば、科学者として大成する前に単なる教養の一つとしてやらせたことが結果としては大誤算!?であったことを、私の二十歳過ぎてからの‘わがままな方向転換’で、嫌というほど知らされることになるのである。結果として、私は母には申し訳ない人生の選択をすることになってしまったのだから(泣・笑)。
1952.6.30
4歳半?
前列右端が彰
才能教室名古屋支部の大会にて
彰ヴァイオリン初舞台
1952頃
4歳半?
(祖父の前の一番小さい子供が彰)
生家玄関の左側から写したもの
この家は、明治初期築で、当時の家の典型として電気もガスも水道も勿論なかった(私が生まれた頃には後付けされていたが)。冷蔵庫などない時代なので、庭の井戸ではよくスイカを冷やしたものである。就学前のある時、私は吊るしたロープから冷やしたスイカを下の水面に落っことし、悔しい思いをしたことを妙によく覚えている。風呂は最後まで五右衛門風呂で、父を除く家族が順番で風呂当番。紙類から火をつけ徐々に薄い小さく切られた薪をくべ・・・、最後にはイワキ(亜炭・戦後一時期使われた、まだ石炭になりきれていない質の悪い石炭?)をくべるのだが、今から考えると、その効率を考えた風呂焚きのための工夫は理科の勉強になったような気がする。そのイワキの山が写真の右側奥に見える。すべてが鉄でできている五右衛門ぶろには排水のための穴などついていないので、使用後は残り湯をくみ上げて捨てるのだが、面倒になると、ゴムホースを使ってサイフォンの原理により自然排水させていた。ゴム管の両端の高さによってその原理が有効にも無効にもなる理屈を理科の先生であった父から習い、小学校1年生の頃から見よう見真似しながら家の手伝いを惜しまない、良い子?であった。懐かしい!
1952.9.23
5歳直前
奥の右から2人目が彰
自宅で近所の同学年を集めた自称;生活団、の様子
ベビーブーム第一期生の我々はすでに幼稚園のときから冷や飯を食らわされていた! 突然大幅に増えた子供(今の子供のちょうど3倍の人数で、上位大学の定員はそんなに変わらないので、入試のレヴェルは今のそれと比べ偏差値的にも比べ物にならないことは数字の上から容易に判る)のため、幼稚園の定員増が間に合わず、多くの子供が入園出来なかった。そのため近所に大勢いた同い年の未就園児たちを集め、週に1日ずつ?の担当で、毎日各家庭が持ち回りで世話をし合うという、まったくプライベートな自称‘生活団’が組織され、それは小学校入学まで続いた。写真に写っているように、まだ戦後間も無い時で物がなく、りんご箱を逆さにした‘椅子’に座っての楽しい集いであった。誰のお母さんの‘授業’が一番楽しいかって・・・・(笑)。おやつ代として毎日10円玉を1枚持っていくのだが、時にはそれを落としたとか何とか言って、せしめた10円玉で好きな買い食いに使うとか(当時好みのサイコロキャラメルが5円、飴玉は1個1円でガラス瓶の中から一つ一つ取り出して売っていた)、就学前の悪ガキの悪知恵は当時から・・・・・
1952.3
5歳半
-
自宅庭で近所の2つ年下の道子ちゃんと
彼女は武蔵野音楽大学声楽家の元教授
1953.9.29
6歳誕生日
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自宅庭にて
弟・真(1歳半)と一緒に
1954.4.2
6歳半
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写真館にて
名古屋市立東山小学校入学記念家族写真
1954.8.6
7歳前
-
長野県諏訪湖畔
家族旅行にて。この年から毎年夏の家族旅行が始まった(感謝)。
1955.7
7歳9ヶ月
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名古屋市立東山小学校教室
彰・小学2年生合同七夕の会にてVivaldi Vn 協奏曲a moll 1楽章等演奏する
1956.1
8歳
自宅庭にて
自宅庭にて
炭を束ねている藁のようなものを広げてネットに(木と木に端を縛って)使ってテニスを。写真は兄が遊び、私は三輪車で弟のお守りを。
1956.?
9歳?
-
場所は不明
才能教室の仲間とその母君様たち。中央帽子をかぶっている子供が彰。前列右から2番目が、作曲で活躍中の新実徳英氏
1957.3
9歳
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小学3年生通知表
学校の成績は概して良く、通知表には5が並んでいたが、皮肉なことに将来進むことになる音楽の成績だけ4を付けられたという事件が起ったことは1度や2度ではなかった。低学年の音楽の成績は学科や楽器の試験があるわけではなく、歌のテストだけが成績を付ける基準になっていたのだろう。声変わりするまでの私の声はドラ声であった故、良い点を付けてもらえなかったとしてもやむを得なかったのかもしれない。音楽性なんて評価の対象になるわけもなく、将来の専門が全科目の中で最低評価であったという冗談のような本当の話を貼付した。ついでに小学6年生の時の児童会会長の任命証書も、整理していたら出てきたので汚れているが添付しておきます。
小学3年生通知表2
小学3年生通知表1
児童会会長任命証書
1957.5.3
9歳
(当時は名古屋市千種区仲田)
一麦教会
同居していた曾祖母池原はな(母の父の母)84歳で逝去。彰、初めて人の死に接する。写真は母方の親族 写真2列目左から2人目が彰
1957.8
10歳前
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福井県の名所・東尋坊にて
恒例の家族旅行にて
1958?
10歳?
才能教育研究会鈴木慎一会長の指導の下、名古屋支部の仲間とその母君様たちの合唱
才能教育研究会鈴木慎一会長の指導の下、名古屋支部の仲間とその母君様たちの合唱
才能教育研究会鈴木慎一会長の指導の下、名古屋支部の仲間とその母君様たちの合唱。鈴木先生の3列後、左端から3~4人目が彰
1959?
11歳
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吉田好美教室
教室の生徒さんの自宅がレッスン場になっていた。その中で時々教室生全員が集ってのおさらい会があった。
1959.8
12歳目前
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日本三景の松島にて
恒例の家族旅行。日光から五色沼、白虎隊、裏磐梯山、飯坂温泉、作並温泉経由で
1959.9.27
12歳直前
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名古屋駅前某ホテル
前日の夜、伊勢湾台風が東海地方を襲った(名古屋近辺だけで死者・行方不明約6千名)。私の自宅も暴風で半壊、名古屋の港区南区等は堤防が切れ、水害で壊滅状態であった。翌27日の昼に挙げるはずだった叔父(母の弟)の結婚式は東海道線の不通もあり、中止の話も出たが、その夜に式は取り止めで、披露宴だけがホテルの一室で開かれ、予定通り私がお祝いと称して拙いヴァイオリンの演奏を披露した。
1960.4
12歳半
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名古屋市立城山中学校入学
ベビーブーム1期生として急に人口が増えたため、理科室、音楽室等すべての特殊教室が一般教室にされたがそれでも足りず、私の教室は急ごしらえのプレハブであった。1クラスは60名、1学年1600名で、私は1年27組であった。そして2年生の時には一クラスを55名に減らし、その代わりに1学年30クラスになっていた。なぜか(戦争の関係か?)当時の男女差は3:2であり(写真を数えてみてください)、いわゆる難関高校や難関大学の合格者数の男女差は5:1~6:1であった。今は男女ほぼ同じ比率(1:1)である。当時は、戦後すぐの時代とは違い、すでに成績優秀な生徒の進学率は男女ともほぼ同じ100%であったのに。何故男女の合格率にそんなにも差があったのか何度考え、誰に聞いても解らない七不思議であった。
1960.4
12歳半
写真館にて
写真館にて
彰;名古屋市立城山中学校(分校)入学、兄郁雄;愛知県立旭丘高校入学記念で家族写真
1962.1
14歳
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名古屋市立千種台中学バレー部
千種台中学(中学3年の時に城山中学校の分校は独立して名古屋市立千種台中学校となった)
当時バレーは9人制。ハーフセンターで主将も務めた。ハーフセンターとは今的に言えばセッター。司令塔だが、背は高くなくても務まる。ただ今も日にちを忘れられない3年の6月11日、名古屋市大会直前に体の異変(結局は今でもその原因が解っていないのだが)のためドクターストップがかかり、泣き泣き休部させられた。当時先生の指導は無く主将を中心に生徒だけでの練習だったため、私はバレーのハウトゥー本を買い込み、家でどうしたらチームが強くなるかの研究にいそしんだものである。それでもその流れを汲んでか(そう思いたいのだが)、1年後輩は翌年の名古屋市大会ではベスト8にまで進んだ。先生の指導の無いチームとしては奇跡であった。
1962.5.17
14歳半
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中禅寺湖畔にて
中学3年の修学旅行は東京と日光界隈であった。
1962.7-11
14~15歳
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同中学合唱部部長
バレー部を強制休部させられ失意の7月に、音楽教師として転任して来られたばかりの佐藤公邦先生に誘われ、NHK合唱コンクール出演のため急ごしらえの合唱部に入る。ここでいきなり名古屋市大会1位、愛知県大会1位、東海北陸大会3位になり、すっかりはまってしまった。
1962.10.7
15歳
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NHK名古屋放送局スタジオ
上記のように急遽合唱コンクールのために駆り出されたことがきっかけで、合唱にのめり込むことになった。この機会が無ければ音楽の道へ舵を切ることなど決してなかっただろう。この写真は名古屋市大会で1位になった後の愛知県大会である。2列目右から2番目が彰。
1962.10.7
15歳
NHK名古屋放送局スタジオ
この大会でも1位となり東海北陸大会(3位)に進んだ。1位の表彰状を受けているのが私である。
今では毎年当時のお礼の意味もあり、写真の右奥の先生方の立場、つまり審査員を承っている。
©Akira Naito
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